織田信長(1534〜1582年)が、室町幕府第15代将軍足利義昭の後見役として、義昭の意を汲んで幕府と畿内の武士の調整役を務めていたことが分かった。
信長が元亀2年(1571年)に書いた、河内(現在の大阪府東部)の武士の安見宗房が戦乱で失った領地の回復を要望していたことから、幕府有力者の細川昭元の家臣、三好為三に宗房と昭元の対面の取り次ぎを依頼する書状が発見された。文末に、「詳しくは明智(光秀)が伝える」と書かれ、当時信長の家臣として台頭していた光秀に、幕府との連絡役を任せていた様子も分かる。
信長は1568年、義昭を立てて入京し、良好な関係を築く。だが、後に2人は対立し、1573年に義昭を京都から追放する。短い期間だったが、対立前は畿内での権益調整の役を担っていたことが分かる史料として注目される。