平城宮跡・東方官衙地区ですごろく?用木の棒2本出土
平城宮跡で朝鮮半島の伝統的なすごろく「ユンノリ」用のさいころとみられる木の棒が出土したことが6月28日、分かった。発掘した奈良文化財研究所が、研究所紀要に掲載した。
棒は奈良時代の役所が集中する「東方官衙(かんが)地区」の穴から2本出土。木の枝を用いており、太さ約1㌢、長さ5~6㌢。断面はかまぼこ形になっていた。同研究所では、当時の役人が身近なものを使って楽しんだのではないか-とみている。
ライフサイエンス産業振興へ京阪神が連携し規制緩和を
国家戦略特区に指定された大阪、京都、兵庫3府県の各商工団体が、医療や製薬のライフサイエンス産業振興に向けた規制緩和の要望書を国に共同提出した。
大阪、京都、神戸の3商工会議所は各副会頭で構成するライフサイエンス振興懇談会を2015年11月に設置。京阪神は歴史的にそれぞれ独立心が強いため、常にバラバラという負のイメージがあるのを覆し、協働しているところを政府にアピールする狙いがある。
リニア中央新幹線の大阪延伸時期の最大8年の前倒し方針が示され、世界規模のスーパー・メガリージョン(巨大都市圏)形成が具現化しつつあるだけに、京阪神の特性を発揮する相互連携は欠かせない。
関ケ原での小早川秀秋の寝返りに新説 決断遅れは肝疾患
豊臣氏の時代から徳川期への移行にあたり、天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦い(1600年)の勝敗の分岐点となったとされる戦国武将、小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返った際、決断が遅れたのは、過度の飲酒で肝疾患に病み、判断力が低下していたためだ-とするユニークな説が発表された。兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、秀秋の当時の症状などを記した史料からまとめたもの。
若林さんは安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の診療録「医学天正記」の記述に注目。秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は肝硬変の原因の一つで、「記述にある症状からは肝硬変が疑わしい」としている。
静岡大名誉教授(戦国史)の小和田哲男氏も「当時は15歳ごろからの飲酒も多く、医師の見地からはそのような解釈も成り立つのではないか」と今回のユニークな説に肯定的な見方をしている。
秀秋は、当時東軍を率いた徳川家康から寝返りを誘われていたが、開戦後もなかなか動かず、家康が怒り出すほどだったと伝えられている。
立川志の輔さん、マレーシア・KLで落語の魅力発信
落語家の立川志の輔さんが6月25日、マレーシア・クアラルンプール(KL)で落語の公演を行った。約500人が集まった会場は満席となり、軽妙な志の輔さんの語り口に明かるい笑い声が湧き起こっていた。
これに先立ち24日に、志の輔さんはKL日本人学校も訪れ、子供たちと保護者、教員の約620人を前に、落語の魅力を伝える講演会を行った。
今回の公演は、今年でマレーシア進出50周年を迎えた富士ゼロックスが記念行事として、協賛企業と実行委員会を組織して開催した。
志の輔さんはこれまでにもタイ、フィリピン、ミャンマー、ベトナムなどASEAN(東南アジア諸国連合)各地で公演しているが、マレーシアは初めて。NNAが報じた。
7/9から177校が熱い戦い 全国高校野球大阪大会
7月9日に開幕する「第98回全国高校野球選手権大会」の組み合わせ抽選会が6月24日、大阪市天王寺区のたかつガーデンで行われ、3回戦までの対戦カードが決まった。甲子園の切符をかけ、177校(連合3チームを含む)が出場し、炎天下、文字通り熱い戦いを繰り広げる。
今春の近畿大会を制した履正社は7月16日の1回戦で関大一と対戦し、昨秋の近畿大会で優勝した大阪桐蔭は17日の2回戦で扇町総合-東の勝者と対戦する。また、今夏限りで休部が決まっているPL学園は15日の2回戦で東大阪大柏原と顔を合わせる。
開会式は7月9日に大阪市西区の京セラドーム大阪で行われる。
JR西日本 大阪環状線新型車両「323系」へ順次切り替え
発の大阪環状線・JRゆめ咲線専用新型車両「323系」が6月24日、近畿車輛(東大阪市)で公開された。
大阪環状線の車両として長年親しまれてきたオレンジ色を基調とし、3枚扉、ロングシートを採用。シートの両端の袖仕切りは肩が当たりにくいよう斜めに設置し、優先座席には立ち上がりやすいよう個別の肘掛けを付けた。
全車両に車いす・ベビーカースペースを設置。車内案内表示は日本語・英語・中国語・韓国語の4カ国語に対応している。訪日外国人旅行者向けに無料公衆無線LANサービスを提供する。
投入車輛は168両。2016年から18年にかけ順次投入し、国鉄時代に製造された大阪環状線内の103系・201系通勤系電車をすべて置き換える。