トヨタなどが実施した交差点の改良工事で渋滞が緩和
日本政府およびトヨタ自動車グループなどが実施したインドネシア南ジャカルタ・マンパン交差点の改良工事後、工事した4カ所のうち1カ所で、最長時の交通渋滞の長さが約77%減少、若干の改良を加えるだけで大きな効果が出ることが分かった。残り3カ所でも渋滞は若干減った。似たような渋滞地点も多い首都圏で、今後の取り組みへの期待が高まりそうだ。じゃかるた新聞が報じた。
大幅に渋滞が減ったのはUターン地点の位置を手前に変える工事。カプテン・テンデアン通りからブロックM方面へ向かう車がUターンする場所で、交差点内まではみ出していたUターン地点を手前に移動させた上、直進できないよう安全地帯を設けた。。その結果、クニンガンからパサールミング方面へ向かう車の列とぶつかることがなくなり、渋滞が最長で65㍍から15㍍へと4分の1以下に、平均通過時間が18秒から8秒と半分以下に減った。昨年12月の計画終了後に調査した結果、4カ所の渋滞の長さ(最長時)は21.10%(19㍍)、交差点の平均通過時間は17.96%(23秒)それぞれ減少した。
この計画は日本政府の草の根・人間の安全保障無償資金協力の769万円をトヨタ・アストラ財団が受けて実施した。官民連携の枠組みで、総予算約1500万円の残りをインドネシアのトヨタ・グループや部品供給企業など23社が拠出。場所の選定などでジャカルタ特別州政府も協力した。
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写真でつなぐ被災地 アチェ市職員が東松島で作品展
写真でつなぐ被災地 アチェ市職員が東松島で作品展
河北新報社によると、2月7日から宮城県東松島市健康増進センター「ゆぷと」で、2004年のスマトラ沖地震で甚大な被害を受けたインドネシアアチェ州バンダアチェ市職員のユリ・マルトゥニスさん(33)の写真展が開かれている。写真展のタイトルは「二つの場所、二十の瞬間」。スマトラ沖地震、東日本大震災、二つの巨大津波に襲われた被災地同士を写真でつなぎ、復興の足跡などを紹介するのが狙いだ。
展示されるのはアチェ、東松山両市でユリさん撮った各10点。アチェでは市場、イスラム教の新年といった風景に加え、津波で内陸にまで流された船、再建されたモスクなど。東松島では茶道など日本文化、がれきの手選別の様子が収められたショット。
ユリさんは両市の関係構築を支援してきた国際協力機構(JICA)の事業で日本に派遣され、東日本大震災で被災した東松山市の産官学民の連携組織「東松島みらいとし機構」で研修中で、その研修が今月で終わる。写真展は、仙台市青葉区のJICAプラザ東北でも計画されている。
在留邦人の増加でインドネシアの県人会の発足相次ぐ
在留邦人の増加でインドネシアの県人会の発足相次ぐ
インドネシアの在留邦人の増加に伴い、新たな県人会の発足が相次いでいる。じゃかるた新聞によると、2012年5月時点で30だった県人会は、13年5月に新潟県人会、11月に栃木県人会、茨城県人会、そして14年1月に島根県人会がそれぞれ発足、計34になっている。
インドネシアにおける県人会で、歴史があるのが北海道の道産子会で、1980年発足だから結成34周年を迎える。鹿児島県人会は88年、ジャカルタ沖縄会は93年にそれぞれ発足している。会員規模は様々で、神奈川県人会は200人を超え、福岡県人会(飛梅会)も180人を上回り、とくに12年以降、約100人が加わり急拡大したという。大阪もこの4年で会員が大幅に増え100人を超えている。
製造業を中心に企業のインドネシア進出の流れはさらに強まることが予想されるだけに、在留邦人の増加、そして新たな県人会の発足はまだまだ続きそうだ。12年10月1日時点の外務省発表のインドネシア在留邦人は過去最多の1万4720人(11年比2251人増)。ジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)会員企業は14年1月時点で548社(13年7月比15社増)となっている。
北九州市がインドネシア・メダンで環境インフラ事業
北九州市がインドネシア・メダンで環境インフラ事業
北九州市がインドネシア北スマトラ州メダン市で、1月から民間企業で廃棄物の管理改善業務を開始、産官民一体でアジアへの環境インフラ輸出の拡大を図るべく、インドネシアで環境インフラ事業を積極的に展開している。メダン市によると、同市では毎日約1000万㌧以上のごみが廃棄され、うち約63%が生ごみだ。ごみ処理方法の確立や廃棄量の減量が課題となっており、廃棄物の管理制度構築が求められている。じゃかるた新聞が報じた。
こうした状況に対応、同市でいま取り入れられているのがモデル地区の導入だ。家庭ごみやパームオイル産業の産業廃棄物を堆肥にするコンポストセンターや、再利用可能なごみを回収し、換金するごみ銀行を設置する。さらに廃棄物の処理関係者を対象にした研修を通じ、人材育成も進める計画。
メダン市環境局の担当者は「北九州市と協力し、環境都市のモデルになりたい」と意気込みを語っている。同事業は国際協力機構(JICA)の草の根技術協力事業(地域提案型)の枠組みで実施。北九州市や九州大、企業では環境リサイクル事業を展開する新菱が参加している。期間は2016年3月末まで。
日本能率協会がインドネシアで生産管理者を育成へ
日本能率協会がインドネシアで生産管理者を育成へ
日本能率協会(JMA)は、インドネシアで日本流の生産現場マネジメントの普及を図る。2013年10月に開始した管理・監督者を育成する研修で、年間200人の受講者および管理者育成を目指す。日系企業にとって共通の課題となっている人材育成を支援する。JMAは日本で実施する資格制度をインドネシアに導入。工場のマネジャー(管理者)とスーパーバイザー(監督者)を対象に、1年間の研修を実施して資格を認定する。NNAが報じた。
第1期の受講生は16人。研修はテキスト学習、試験対策講座、筆記試験、自社工場の改善活動-の順で進める。半年ごとに受講生を募集し、第2期は4月に開講する。
東京五輪に向け日・イバドミントン協会が協力関係強化
東京五輪に向け日・イバドミントン協会が協力関係強化
日本バドミントン協会(NBA)とインドネシア・バドミントン協会(PBSI)はこのほど、2020年に開催される東京五輪に向け、協力関係を強化することで合意した。日本側はバドミントン強豪国のインドネシアから選手を招き、合宿所などを提供し、練習試合でレベルアップを図る。インドネシアを訪れた今井茂満NBA専務理事らが、PBSI会長を務めるギタ商業相と会談し、明らかにしたもの。
会談には07年の国体開催以来、スポーツ合宿の誘致に力を入れている秋田県の堀井啓一副知事らも出席。日本で開かれるジャパン・オープンや五輪の前に行う合宿の宿泊施設や練習会場の提供を申し出た。
『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」
あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。
信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。
楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷
信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。
信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。
会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。
利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。
氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。
『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」
豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。
豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったため
それだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。
秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。
最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康
それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。
関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。
『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」
豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。
三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。
「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです。
三角縁神獣鏡は「魔鏡」反射光に背面の文様浮かび上がる
三角縁神獣鏡は「魔鏡」反射光に背面の文様浮かび上がる
京都国立博物館は1月29日、3次元(3D)プリンターを使って「卑弥呼の鏡」との説がある古代の青銅鏡「三角縁神獣鏡」の精巧な金属製レプリカを製作したところ、壁に投影した反射光の中に鏡の背面に刻んだ文様が浮かび上がる「魔鏡」と呼ばれる現象が起きることが分かったと発表した。
この現象は太陽光線など平行光で特に顕著で、人心を掌握するのに用いた可能性や、太陽信仰との関連を指摘する意見もあり、古代鏡の研究に新局面をもたらしそうだ。鏡は古代の祭祀(さいし)で用いたと考えられているが、具体的役割は不明だった。今回のような現象を起こす鏡は古代中国の漢代に登場。日本では江戸時代に隠れキリシタンが用いたものなどが知られるが、国内の古代鏡で確認されたのは初めてという。