支倉常長ら「慶長遣欧使節」の資料 世界記憶遺産登録
仙台藩主、伊達政宗の命を受け、1613年(慶長18年)スペインやローマに渡った支倉常長ら「慶長遣欧使節」の資料が6月、世界記憶遺産に登録された。登録されたのは、鎖国直前の日欧交渉を伝える貴重な資料として国宝の3点。所蔵する仙台市博物館では、このうち支倉常長像など2点を常設展示している。
同使節派遣から今年は400年の節目の年だ。宮城県石巻市など東日本大震災で被災したゆかりの地域では、今回の登録を機に震災からの復興の弾みにしたいという機運が高まっている。今秋から関連イベントが目白押しで、津波で被災した木造使節船「サン・ファン・バウティスタ」号の復元船を修復し再公開する予定もあり、観光客の呼び込みに期待が集まっている。
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日・イ関係をより緊密なものに 大使公邸でブカプアサ
日・イ関係をより緊密なものに 大使公邸でブカプアサ
南ジャカルタの駐インドネシア日本大使公邸で7月23日夕、インドネシアのイスラム団体の有識者やプサントレン(イスラム寄宿学校)教師ら54人を招き、今年で10回目を迎えたブカプアサ(断食明け)の夕食会が開かれた。鹿取克章・駐インドネシア日本大使は「インドネシア教育におけるプサントレンの果たす役割と存在の大きさを実感している」とあいさつし、2004年から始まったプサントレン教師の日本招へいプログラムを通じて、「日・イ関係をより緊密なものにしていきたい」と今後の活動に期待を寄せた。
プサントレン招へいプログラムは、日本とインドネシアのイスラム世界との相互理解を深めることを目的に、日本政府が2004年に開始。毎年12人を日本へ招へいし、日本の教育現場を視察し教師や有識者、大学生との意見交換、ホームステイなどを実施している。
今回、インドネシア側から出席したのは同国第2のイスラム団体ムハマディヤのディン・シャムスディン議長や、国立イスラム大学イスラム社会研究所(PPIM)関係者、プサントレン教師ら。鹿取大使らと懇談しながら食事を楽しんだ。
バリ日本語補習校で夏休みが終わり2学期がスタート
バリ日本語補習校で夏休みが終わり2学期がスタート
地元紙によると、バリ日本語補習授業校で、6月中旬から始まっていた夏休みが終わり、7月8日から2学期がスタートした。ただ、夏休みは現地校の学年末の休み期間に合わせて決めており、一時帰国した児童の登校は遅れることが多いという。したがって、日本国内のように日を区切って全員が顔を揃えてというわけには行かないようだ。
新学期が始まってから、児童たちには思いがけない遊び場ができた。それは、夏休み期間に保護者の支援も受けて学校の敷地内にミニアスレチックが設置されたからだ。これまで運動することが少なかった児童たちは、手が痛い、足が疲れたなどといいながらも、体を動かす喜びを感じたのか、アスレチックに行列をつくり連日好評だという。
学習面では日本語能力試験で、より高い級での合格を目指すため授業時間を増やした。7月から1カ月に1回だけ2時間、小学4年から中学生までの児童・生徒を受験級に応じたクラスにまとめる「チャレンジクラス」を編成。8月4日には希望者を対象に日本語能力校内模擬テストを行うという。
同校は1990年に設立され、小・中学部では5月時点で約190人の子供が学んでいる。8月には運動会、11月には補習校祭りを開催する予定だ。
バンドン日本人学校で夕涼み会、七夕会 さながら夏祭り
バンドン日本人学校で夕涼み会、七夕会 さながら夏祭り
地元紙によると、バンドン日本人学校(BJS)はこのほどPTA主催の夕涼み会、七夕会を開いた。夕涼み会の当日は昼過ぎに雨が降り、一時は開催が危ぶまれたが開会予定時間前に雨がやみ、無事、会を催すことができた。佐藤邦壽校長、バンドンジャパンクラブ(BJC)の高森健彰会長のあいさつで会がスタート。BJSの子供たちや職員、BJCの参加者も浴衣姿で、会場はさながら日本の夏祭りのような雰囲気に包まれた。
輪投げや射的などのゲームや、焼きそばやホットドッグ、フライドポテト、たこ焼きなどの出店が並び、インドネシアにいながら、日本さながらの祭りを楽しんだ子供たちは、すいか割りや神輿担ぎも体験した。日本人だけでなく、会場のインドネシア人も参加し、盆踊りや線香花火で盛り上がった。
7月5日にはBJSで七夕会を開催した。当日までにそれぞれのクラスで願い事を短冊に書き、七夕飾りを作って準備していた子供たち。1人ずつ願い事を発表し、願いが叶うように全員で七夕の歌を元気に歌った。
宝永地震の「大坂の死者2万1000人超」幕府の記録
宝永地震の「大坂の死者2万1000人超」幕府の記録
新潟大の調査によると、江戸時代中期の1707年に発生した宝永地震(マグニチュード8.6)で、大坂(現・大阪)市中の津波などによる死者は2万1000人を超えたとする記録が残っていたことが分かった。この記録は地震直後に、尾張藩士が幕府の報告書を写したもので信頼性が高く、宝永地震の被害見直しを迫る史料となりそうだ。宝永地震は有史で最大級の南海トラフ地震だが、被害実数が分かる史料は少なく、大坂の死者は数千~1万人、全国で計2万人との推計が通説だった。
「天下の台所」と呼ばれ、物流拠点として栄えていた大坂の人口は当時約35万人。死亡率は6%に達し、全国最多だったとみられる。新潟大の矢田俊文教授は、宝永地震では今の大阪市中心部の大半が浸水し、多くの橋が落ちた。将来の防災に生かしてほしい-と話している。津波の直撃を受けなかった内湾沿いの大坂でも、南海トラフ地震で死者が2万人を超えたという記録は衝撃的だ。