「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

宮都支えた製鉄炉を再現 大津市・源内峠遺跡

宮都支えた製鉄炉を再現 大津市・源内峠遺跡
 滋賀県大津市郊外、びわ湖文化公園の片隅に、源内峠遺跡(大津市)で見つかった7世紀後半の製鉄炉が再現されている。一見オブジェのようにも見える、楕円形の塔の群れがそれだ。一帯は7~8世紀の製鉄や製瓦陶に関わる遺跡が集中。現代風に表現すれば、当時の都、奈良県の飛鳥京や藤原京などへ物資を供給する古代のコンビナートだったとみられ、「瀬田丘陵生産遺跡群」として国史跡となっている。
 源内峠遺跡もその一つで、製鉄炉跡が4基見つかっている。炉は粘土積みで長さ2.5㍍前後、幅30㌢前後、高さは推定1㍍余り。砕いた鉄鉱石と木炭を投入して点火し、側面に並ぶ穴からふいごで空気を送り込んで温度を1200~1400度まで高める。不純物(鉄滓=てつさい)を炉外に排出し、最後に炉壁を取り壊して、底に溜まったケラ(鉄素材)を取り出したと考えられる。15年前の発掘では鉄滓が15㌧も出土したという。炉の復元は地元住民らで組織する「源内峠復元委員会」によるもの。

キトラ古墳の石室内で新たな石材加工の目印の朱線

キトラ古墳の石室内 新たな石材加工 目印の朱線
 奈良文化財研究所によると、奈良県明日香村の国特別史跡、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室内で、石材加工の目印にしたとみられる朱線が新たに51カ所見つかった。朱線は長さ0.1~3.6㌢。これまでに見つかった分と合わせ計117カ所となった。こうした朱線は同村の高松塚古墳(同)でも確認されており、古墳の築造技術を探る重要な手掛かりという。キトラ古墳は、石室を埋め戻して墳丘を一部復元し、公園にする計画。

志賀直哉の未発表書簡 岡山で見つかる

志賀直哉の未発表書簡 岡山で見つかる
 作家の志賀直哉(1883~1971年)の未発表書簡が岡山県倉敷市で見つかった。これは彼が小説を連載していた大阪毎日新聞の学芸部長で詩人の薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた手紙とはがき計5通。これらは1919~20年に書かれ、倉敷市出身の薄田の遺族が市に寄贈した資料の中から発見された。うち4通は、同紙で連載した「或る男、其姉の死」に関する内容。新聞連載用に回を区切って書く難しさを語ったもの、紙面の都合で連載が休止された時期に、あまり間が空くのは読者には面白くない-などのいらだちを綴ったものもある。

東大寺二月堂で「修二会」本行始まる

東大寺二月堂で「修二会」本行始まる
 東大寺二月堂(奈良市)で3月1日、「修二会(しゅにえ)」(お水取り)の本行が始まった。前日の春のような陽気から一転、小雨混じりのあいにくの天候となったが、傘越しに多くの参拝客が見守る中、童子と呼ばれる男たちが打ち振るった長さ約6㍍のたいまつが、夜空に明々と燃え上がった。火の粉を浴びたり、燃えかすを拾ったりすると無病息災がもたらされると伝えられる。修二会は752年に始まり、選ばれた11人の僧侶「練行衆」が、十一面観音像を祀る二月堂で板に体を打ち付ける「五体投地」などの懺悔(ざんげ)の行に勤める。

奈良・薬師寺で東西両塔を同時公開

奈良・薬師寺で東西両塔を同時公開
 奈良市の薬師寺で3月1日、約110年ぶりの大規模な解体修理が進められている東塔(国宝)と、復元、修理された四天王立像(国の重要文化財)を堂内に安置する西塔が同時に一般公開された。東塔の1階は心柱(しんばしら)を間近に見られ、解体修理中に心柱の最上部から発見された仏舎利も拝観できる。3月20日まで公開。

興福寺の出城跡で”堀切り”跡見つかる

興福寺の出城跡で”堀切り”跡見つかる
 京都府木津川市教育委員会によると、興福寺(奈良市)の出城だった鹿背山(かせやま)城跡(京都府木津川市)で、敵が襲撃しづらくなるように、山の尾根をV字形に掘った”堀切り(ほりきり)”跡が見つかった。城の周辺には当時、寺の荘園があり、城は軍事的拠点として整備されたとみられる。堀切りは城の曲輪(くるわ)に向かう尾根で見つかり、最深8.3㍍、幅10㍍。寺側の文献には、1568年9月、戦国武将の三好氏の軍勢と遭遇して城に逃げ帰ったとの記述が残っている。こうした事態に備え堀切りを築造したとの見方が有力だ。

大阪・豊中市 古墳時代後期 須恵器120点出土

大阪・豊中市で古墳時代後期の須恵器120点出土
大阪府豊中市教育委員会は2月22日、同市桜井谷2-2号窯跡で、古墳時代(6世紀初め)の須恵器が約120点出土したと発表した。焼成中に天井部が落下したため、窯詰め中の須恵器が当時のまま出土。桜井谷窯跡群は6世紀前半に突然生産規模が拡大する。大阪大学の福永伸哉教授は「継体天皇が淀川流域を拠点に新たな王権を打ち立てる時期と合致し、この地域を国家的窯業地として育成した意図が読み取れる」としている。

形・規模似 京都・元稲荷古墳 神戸・西求女塚古墳

形・規模似た京都・元稲荷古墳 神戸・西求女塚古墳
 向日市埋蔵文化財センターは2月28日、国内最古級の前方後円墳の元稲荷古墳(京都府向日市、3世紀後半)が、同時期の西求女塚古墳(神戸市灘区)と形も規模もほぼ同じことが分かったと発表した。1月からの調査で、元稲荷古墳の全長は94㍍、後方部の幅は50㍍、後方部とつながるくびれ部の幅は23㍍と判明。西求女塚古墳は全長98㍍、後方部の幅は50㍍、くびれ部の幅は25㍍。したがって、2つはほぼ同じ大きさで、ここまで似ている例は極めて珍しいという。同センターはそれぞれの被葬者は大和政権の同じランクに属し、どちらも政権が派遣した同じ職人集団が設計したのではないか-としている。

「お登勢」生家の記録文書 大津で発見

「お登勢」生家の記録文書 大津で発見
 坂本龍馬ら幕末の志士を支援した京都・伏見の宿「寺田屋」の女将「お登勢」の生家を記録した文書が大津市で見つかった。見つかったのは1847年の宗門人別長。お登勢は現在の大津市中央1にあたる丸屋町の宿「升屋」を経営した重助の次女で、当時18歳と記され、きょうだい4人がいたことも分かった。お登勢は寺田屋に嫁いだ後、主人、伊助を助けて宿を切り盛りしたことで知られているが、生家や家族の状況は詳しく分かっていなかった。寺田屋は1866年、龍馬が伏見奉行に襲撃された、いわゆる寺田屋事件の舞台。

萩原朔太郎直筆のはがき 前橋で見つかる

萩原朔太郎直筆のはがき 前橋で見つかる
 「月に吠える」などの作品で知られる萩原朔太郎が編集者に送った直筆のはがきが新たに見つかった。消印は大正15年(1926年)3月9日。東京にあった出版社「博文館」編集部の新井弘城に宛てた、原稿催促に対する返信文が認められている。萩原朔太郎は大正時代に活躍した詩人で、同市の前橋文学館で3月1日から31日まで公開される。