奈良県立橿原考古学研究所が行った、奈良県明日香村の国内最古とされる本格的な庭園遺跡「飛鳥京跡苑池」の発掘調査で池と近くの水路をつなぐ溝が新たに見つかり、12月4、5日の2日間、一般公開された。
今年度の発掘調査で、庭園の池からあふれた水を近くの水路に流すために設けられたとみられる溝が新たに見つかった。1,300年余り前の飛鳥時代の建築技術や文化の一端がうかがわれる。2日間に多くの考古学ファンや地元の人たちが見学に訪れ、石を積み上げて溝が造られている様子をじっくりと眺めて写真に収めて、古代の風景に思いを馳せていた。
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大阪「鴻池組旧本店」洋館・和館など5件が国の有形文化財に
国の文化審議会はこのほど、大阪府内の建造物5件を国の有形文化財に登録するよう答申した。大阪市此花区の明治43年に建てられた「鴻池組旧本店」の洋館と和館、高槻市で現在、レストランなどに使われている「旧京都大学高槻農場」など合わせて4件の建物と、柏原市にある安田家住宅母屋も新たに登録されることになった。
鴻池組旧本店の洋館の外壁は、白いモルタルに赤いレンガでラインを巡らせたモダンなデザインが特徴。玄関ホールにはクジャクやバラをモチーフにしたステンドグラス、応接室の暖炉や棚には当時流行していたアール・ヌーボーの装飾が施されている。また、和館は屋根が瓦葺きで軒下は漆喰(しっくい)が塗り込められ、重厚な町家のつくりとなっている。
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大阪・堺市 仁徳天皇陵で多数の埴輪の破片など見つかる
宮内庁と堺市が10月から調査を進めている、国内最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」として管理されている世界遺産、大山古墳から多数の埴輪の破片などが見つかり、11月19日、報道陣に公開された。古墳の最も内側の第1堤の10カ所で、縦2m、横は最大で13.5mの調査区域を設け、30cmほど掘り起こして行った調査結果が示された。
今回の調査では、堤の内側で円筒埴輪などの破片が見つかった。3年前に初めて行った調査で、堤の外から同様の発見があったことから、宮内庁は堤の内外両側に花輪が並べられていた可能性があるとしている。また、木製の埴輪が立っていたと推測される穴や、こぶし大の石を敷き詰めた石敷きも見つかった。
調査は12月上旬までで、堺市は史料の一部を博物館などで公開することを検討している。
奈良・橿原市で弥生時代前期の水田跡やひつぎなど発見
奈良県立橿原考古学研究所によると、弥生時代の集落を囲む溝が見つかっている奈良県橿原市の発掘調査現場(橿原市四条町)で、新たに水田の跡やひつぎが見つかったと発表した。
現場は東西25m、南北20mの範囲で、およそ2,400年以上前の弥生時代前期のものとみられる水田の跡とそこで作業していたとみられる人々の足跡が数百個見つかった。また水田跡から北西に300mほど離れた場所で、同じ時期のものとみられる土器のひつぎが2つ見つかった。ひつぎは大きいもので高さ70cm、幅80cmほどの大きさで、子どもが埋葬された可能性があるという。
これまでの発掘調査で、周辺からは集落を囲う環濠とみられる溝なども見つかっていて、同研究所は稲作をしながら人々が暮らしていた集落があった可能性が高いとみている。また、これら一連の発見は集落、食料生産、埋葬という生活の3つの要素がセットでそろって珍しいもの。この地域の弥生時代の生活をみていくうえで、貴重な史料だとしている。
奈良・高取町で古墳時代中期の人工池を発見 渡来人が築造か
奈良県高取町教育委員会は11月17日、同町の清水谷(しみずだに)遺跡で、川原石を積んで護岸を施した古墳時代中期(5世紀中ごろ)の人口の池の跡が見つかったと発表した。池は東西26m、南北13m、深さ60cm。石組みの護岸を施し、西側に排水溝を設けていた。
同町ではこれまでに大壁(おおかべ)建物と呼ばれる朝鮮半島から来た渡来人の古墳時代の住居跡が約40棟出土し、渡来人が多く住んでいたとみられる。同町教委によると、日本書紀の「応神7年の条」には「高麗(こま)人や百済人などが来朝し、池をつくり、その池を韓人(からひと)池という」と記されており、今回見つかった池は、こうした記述にみられるような渡来人が造った人口の池だったとしている。
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平安京の内裏「登華殿」の建物跡を初めて確認 柱穴発見
京都市埋蔵文化財研究所が行った発掘調査およびその報告書によると、平安京の天皇が暮らす「内裏」のうち、皇后らが住む「登華殿」の一部の柱の穴が見つかったことが分かった。平安時代の内裏の建物跡が確認されたのは初めてという。
報告書によると、建物の柱の穴が5カ所見つかり、江戸時代に記された文献と照らし合わせたところ平安京の天皇が暮らす「内裏」のうち皇后らが住む「登華殿」の跡だと分かったという。さらにこの穴は、およそ1mから2m四方の掘っ立て柱の穴で、この建物の形状が縄文時代のころからの建築様式で、中国の様式が好まれた平安時代初期になっても、古くからの様式を採用していたことが判明したとしている。また、柱の穴の間隔はおよそ3mあり、文献に基づくと南北27m、東西12mの建物だと推測できるという。