大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 辰巳琢郎氏に出馬打診 大阪ダブル選で自民府連 2015年8月26日 辰巳琢郎氏に出馬打診 大阪ダブル選で自民府連 11月22日投開票の大阪府知事と大阪市長のダブル選で、自民党府連が、大阪市出身で俳優の辰巳琢郎氏(57)に出馬を打診したことが分かった。自民関係者は「識見、知名度ともに高い」と期待を寄せ、知事選を軸に調整。ただ、辰巳氏は9月から放送が始まるNHK連続テレビ小説への出演予定があると説明、態度を保留している。辰巳氏の事務所も「コメントできない」としている。自民は説得を続ける構えだ。自民関係者によると、府議や市議が知事、市長の両にらみで数回にわたって出馬要請している。
  • アルフレッサHD 近畿の医療用医薬品の供給網再編 2015年8月25日 アルフレッサHD 近畿の医療用医薬品の供給網再編 アルフレッサホールディングス(HD)は11月をめどに、近畿地方の医療用医薬品の供給網を再編する。門真物流センター(大阪府門真市)を大阪物流センター(大阪市北区)に統合し、大阪府南部や奈良県への配送を効率化する。大阪府内の営業拠点も集約して納期を短縮する。ジェネリック医薬品(後発薬)普及で医薬品卸の扱い製品数が増えていることを受け物流を高度化する。
  • 阪大などが晩年の自画像基にダビンチロボ制作 2015年8月24日 阪大などが晩年の自画像基にダビンチロボ制作 大阪大学などのチームは、ルネサンス期の万能の天才、レオナルド・ダビンチの晩年の自画像を基に、そっくりのロボットを開発し8月21日、東京都内でで報道陣に公開した。長いひげの生えた教科書等でお馴染みの、座った姿のダビンチ。 特殊なシリコーンで覆われた首と顔を空気圧で動かすことで、様々な表情ができる。このほか、あらかじめ録音した音声などで話すこともできる。ロボットはイタリア語で「こんにちは、私はレオナルド・ダビンチです」と自己紹介する。監修した浅田稔・大阪大学教授は「科学教育用ロボットとして活用していきたい」と話している。
  • ダイキン会長 オリックス陣営に10億~20億円出資検討 2015年8月24日 ダイキン会長 オリックス陣営に10億~20億円出資検討 ダイキン工業の井上礼之科医長は8月21日、関西国際国際空港と大阪国際(伊丹)空港の運営権取得入札について「オリックス陣営への出資を検討している」と述べた。9月の2次入札に向けて「10億~20億円程度出資を考える」としている。オリックス側からの参加打診に応じる考えを示した。
  • 日本食材を関空から世界へ 輸出用食品倉庫開業 2015年8月23日 日本食材を関空から世界へ 輸出用食品倉庫開業 新関西国際空港会社は8月21日、関空に設けた食品の輸出に特化した倉庫の開業式を開いた。総床面積は約3000平方㍍あり、食材の鮮度を保つために冷凍・冷蔵機能も備える。 航空貨物の配送大手、航空集配サービス(千葉県習志野市)が関空の敷地内に設けた。投資額は数億円。8月31日から業務を開始する。将来は施設全体として、イスラム教の戒律に沿った「ハラル認証」取得することも計画している。
  • 「関西維新の会」届け出 近畿2府4県で活動 2015年8月23日 「関西維新の会」届け出 近畿2府4県で活動 地域政党・大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が近畿2府4県を活動区域とする政治団体「関西維新の会」(大阪市中央区)の設立を総務省に届け出たことが分かった。代表には松井一郎・大阪府知事を充てる方向で調整している。
  • 住之江区「大坂夏の陣400年 秀頼の薩摩落ち伝説ツアー」 2015年8月22日 住之江区「大坂夏の陣400年 秀頼の薩摩落ち伝説ツアー」 大阪市住之江区はフェリー会社などと協力して、住之江区と鹿児島を結ぶ「大坂夏の陣400年 秀頼の薩摩落ち伝説ツアーを企画した。大坂夏の陣(1615年)で、母・淀君とともに自害したとされている豊臣秀頼。だが、実は「生き延びて大坂城を抜け出し、薩摩に逃れていた」と伝えられる歴史伝説に注目した。フェリーターミナルが集まる湾岸エリア、住之江の話題づくりにつなげる新たな試みだ。 今回のツアー企画を監修した大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長によると、「『秀頼の薩摩落ち』は事実ではないだろうが、大坂夏の陣の直後から、かなりの信ぴょう性をもって語られていた。それほど秀頼が多くの人々に愛されたことを示しており、歴史的な意味がある」と説明する。 ツアーは10月2日から3泊4日。フェリーで鹿児島に赴き、「豊臣秀頼の墓」「真田幸村の墓」と伝わる墓を訪問。秀頼を保護したという島津公の子孫に感謝するイベント「島津公にお礼詣」もあり、島津家とゆかりのある住吉大社(住吉区)や、、幸村が最期を遂げた安居神社(天王寺区)の関係者も参加する。船中で「歴史講座」「Shion(旧大阪市音楽団)コンサート」もある。5万9800円。問い合わせは、さんふらわあトラベルまで。
  • 大阪府議会8/26開会 自民の大阪会議条例改正案審議 2015年8月22日 大阪府議会8/26開会 自民の大阪会議条例改正案審議 大阪府議会は8月20日の議会運営委員会で、自民党が要請した臨時議会の日程を26日開会、9月2日閉会と決めた。府と大阪、堺両市でつくる「大阪戦略調整会議」(大阪会議)の設置条例改正案を自民が提出、審議する。改正案では、議事運営など一部の議決について要件を緩和する。会長の解任規定も盛り込む。
  • 夏の関空53万人出入国 外国人急増 過去最多 2015年8月21日 夏の関空53万人出入国 外国人急増 過去最多 大阪入国管理局関西空港支局は8月19日、夏の繁忙期(8月7~16日)の関西空港の出入国者数(速報値)が、前年同期比約28%増の53万5230人だったと発表した。 うち外国人は約85%増の30万9780人で、同期間としては過去最多。日本人は約10%減の22万5450人で、初めて外国人が日本人を上回った。今年はゴールデンウイーク期間も外国人が日本人を上回っていた。 渡航先別の出国者数は、中国が前年同期比約72%増の6万8370人、2位は韓国で約27%増の5万4140人、3位は台湾で約31%増の4万1980人だった。
  • 7月大阪税関 貿易黒字93億円 5カ月連続黒字に 2015年8月21日 7月大阪税関 貿易黒字93億円 5カ月連続黒字に 大阪税関が8月19日発表した7月の貿易概況(速報)によると、近畿2府4県の輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は93億円の黒字(前年同期は631億円の赤字)だった。黒字は5カ月連続。中国向けの電子部品などの輸出が伸びる一方、原油安を反映して天然ガスや原油の輸入が減った。 輸出額は4.9%増の1兆3745億円で29か月連続の増加。輸入額は0.6%減の1兆3653億円で5カ月連続減少。天然ガスや原油の単価が3割前後下落しており、輸入額が大きく減った。
  • 7月大阪地区の百貨店売上高6.2%増 4カ月連続プラス 2015年8月20日 7月大阪地区の百貨店売上高6.2%増 4カ月連続プラス 日本百貨店協会が8月19日発表した7月の大阪地区の百貨店売上高は、前年同月比6.2%増の743億円と4カ月連続のプラスとなった。セールや月後半からの暑さで、夏物衣料を中心に売り上げが好調だった。訪日外国客らによる高額品の売り上げの伸びも続いている。 商品別では美術・宝飾・貴金属が46.2%増、化粧品が29.6%増と好調で、子供服・洋品も15.4%増だった。神戸地区の売上高は4.7%増の147億円、京都地区は5.3%減の227億円だった。
  • 7月近畿のマンション販売は3カ月ぶりマイナス 2015年8月20日 7月近畿のマンション販売は3カ月ぶりマイナス 不動産経済研究所(東京都新宿区)が8月18日発表した近畿2府4県の7月のマンション発売戸数は、前年同月比37.6%減の1258戸となり、3か月ぶりに前年実績を下回った。契約率は75.1%で2.0㌽下落したが、好調の目安とされる70%は上回った。 同研究所の担当者は「9月以降に注目物件の発売が控えており、7月は間の時期」とし、減少は一時的なものと分析している。地域別の発売戸数は、大阪市が12.3%減の512戸、神戸市が38.7%減の244戸、京都市が76.7%減の83戸だった。
  • 7月の関空旅客数最多の205万人 アジア便拡充で 2015年8月19日 7月の関空旅客数最多の205万人 アジア便拡充で 新関西国際空港会社が8月18日発表した7月の運営概況(速報値)によると、関西国際空港の旅客数は前年同月比25%増の205万人となり、1994年の開港後、単月としてこれまで最高だった2000年8月(203万人)を上回った。中国を中心としたアジア方面の路線拡充を受け、外国人旅行客が大幅に増え、全体を押し上げた。 旅客数のうち国際線の外国人は72%増の96万人、日本人は10%減の47万人だった。國際線の発着回数は26%増の1万82回で、開港から初めて1万回を超えた。 大阪(伊丹)空港の旅客数は1%減の118万人で、3カ月連続で前年を下回った。
  • 大阪府 15年上半期の外国人客1.9倍の320万人に 2015年8月18日 大阪府 15年上半期の外国人客1.9倍の320万人に 大阪観光局は8月17日、2015年上半期(1~6月)に大阪府を訪れた外国人観光客が前年同期の1.9倍となる320万人に上ったと発表した。通年では、これまでで最も多い14年の376万人を大幅に上回り、500万人を突破するのは確実と予想している。 同観光局によると、今年の1~3月は前年同期比83%増の130万人、4~6月は97%増の190万人だった。中国人が最も増えており、前年同期の3倍となる114万人が訪れた。「爆買い」目的で来日する人が急増しているとみられる。同観光局は、東京五輪が開催される2020年には、年間650万人の外国人観光客に大阪を訪れてもらう目標を立てている。
  • セブン 関西で攻勢 3年で店舗5割増 地域密着戦略 2015年8月17日 セブン 関西で攻勢 3年で店舗5割増  地域密着戦略 セブン-イレブン・ジャパンが関西市場で攻勢をかけている。総菜や弁当で関西仕様の商品を増やし、大阪、京都など地域ごとに味付けを変えている。パン工場などを新設し、地産地消も進めている。店舗の集客力を高め、2018年2月期までの3年間で関西の店舗数3000店と5割増やす計画だ。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。