生誕100年の織田作之助しのび「善哉(ぜんざい)忌」
「夫婦(めおと)善哉」など大阪を舞台にした小説を数多く執筆した作家・織田作之助の生誕100年の節目の今年、織田にちなんだ催しが目白押しだ。1月12日には菩提寺のりょう厳寺(大阪市)で「善哉忌」が行われ、5月に上演される音楽劇「ザ・オダサク」の出演者らが墓参した。夏には大阪市内で映画祭「織田作之助と仲間たち」が企画され、秋には企画展も予定されている。
月別アーカイブ: 2013年1月
盛岡の研究家が友人から見た啄木論を刊行
与謝野晶子 直筆短歌103首 原稿岡山で発見
与謝野晶子の直筆短歌103首収めた原稿岡山で発見
岡山県倉敷市に寄贈された薄田泣菫の書簡類の中から、歌人・与謝野晶子直筆の短歌103首が収められた原稿用紙が見つかった。親交が深かった同市出身の詩人、泣菫に新聞掲載用に送った作品で、うち16首は未発表とみられる。短歌はB4サイズの原稿用紙12枚に黒インクのペンで記されていた。
「街行けば涙ぐまるるおもひでの必ずわきぬまづしきがため」「砂踏むを焼けむとそしり網小屋の蔭をあゆめり物思ふ人」「物思ふ萱の葉などと並ぶ時今こし方のわれもうらめし」「髪よりも静かなるなし夕ぐれの山の色よりみづうみよりも」など16首は新聞紙面や晶子の全集に掲載が確認できず、未発表という。また、計15首を綴った2枚の原稿用紙には「紫影抄」と題名が付けられ、欄外に「一度にお載せ下さい」と朱筆で書き添えられていた。
中国の「書聖」王義之の書の写し見つかる
中国の「書聖」王義之の書の写し見つかる
東京国立博物館(東京都台東区)は、4世紀の中国・東晋時代の「書聖」と呼ばれる書家、王義之(おうぎし、303~361年、諸説あり)の書の写しが見つかったと発表した。この貴重な写しは、縦25.7㌢、横10.1㌢の紙に3行にわたり24文字で書かれ、手紙の一部とみられる。同館の富田淳・列品管理課長が鑑定した。王義之の写しと判断した根拠は①写した文字の輪郭の内側を墨でうめる「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」という高度な手法で書かれている②王義之の息子「期」らの名前や、よく用いた表現「日弊」がある③「妹至帖(まいしじょう)」などに字姿がよく似ている-など。
筆使いや文面などから、7~8世紀の唐代に宮中で制作されたものの一部とみられる。王義之は楷書、行書、草書を芸術的な書体へと完成させ、古今第一の書家。優雅で力強い書風は、唐の太宗皇帝など歴代皇帝が愛好した。
現代語の新作能「世阿弥」4月 上演 生誕650年記念
12日~皇居・東御苑 明治の元勲 肖像写真 初公開
大きな歯持つ太古の鳥の化石発見 中国・遼寧省
マチスの盗難絵画 25年ぶり英国で発見
成長著しいジャカルタで働きがい求める20代日本人増える
いまの日本社会に存在する様々な旧弊を嫌悪し、若い世代の日本人がインドネシア、タイなどで”就活”する動きが増えている。
インドネシアの首都ジャカルタの日系企業で働く20歳代の日本人の若者に共通するのは「自分が簡単に入れ替え可能なパーツではなく、人材として必要とされている」「成長する経済・社会の中に身を置き、やりがいを実感したい」などの、日本ではもはや体感することのできない、強い思いだ。そうした思いを叶えられる場所、「若者が夢、野望を抱ける国」として、彼らはジャカルタを選んだのだ。
しかし、なぜ海外なのか、ジャカルタなのか、シニア以上の世代には端的には理解しにくいところだ。しかし、1990年代以降、日本が「失われた20年」と揶揄(やゆ)されるように、実は彼らは日本経済の「成長を知らない子供たち」なのだ。かつて”エコノミック・アニマル”と称されたように、日本の代名詞でもあった経済の強い成長力は衰え、この20年で国際関係も経済のしくみも、人口構成も大幅に変わったのに、制度改革がそこに追いついていない。日本にはびこる「学歴主義」「社歴至上主義」など、偏見なく外国に目を向ける彼らは若者独特の鋭敏さで、こうした旧弊を忌み嫌い、職場に漂う「抑圧感」「窮屈さ」に直感的に抵抗を覚えるのだ。
いまの25歳が物心ついたころ、日本ではバブル経済が崩壊した。10歳のころ、生産年齢人口(15~64歳)がピークを打ち、下り坂になった。一時的な現象と思われていた不況が、不幸にもそれが当たり前となるような時代に思春期を過ごした世代だ。
日本からのインドネシア進出企業は1255社。日本式ビジネスを理解した日本人を求める企業の求人は増え、現地では常時100件以上に上っているという。現地採用された日本人の平均給与は手取りで1700~3000㌦(14万~25万円)前後。物価水準は日本の1/3~1/4のため生活に不自由することはない。
だからこそ、「どうせなら、未来の感じられる国で」「自分が、働く国の経済に一役買っている気持ちを持てて、日々やりがいがある」などの思いを実感できるジャカルタが、彼らが望む働く場所としての条件を揃えているのだろう。