月別アーカイブ: 2013年1月

生誕100年織田作之助しのび「善哉(ぜんざい)忌」

生誕100年の織田作之助しのび「善哉(ぜんざい)忌」
 「夫婦(めおと)善哉」など大阪を舞台にした小説を数多く執筆した作家・織田作之助の生誕100年の節目の今年、織田にちなんだ催しが目白押しだ。1月12日には菩提寺のりょう厳寺(大阪市)で「善哉忌」が行われ、5月に上演される音楽劇「ザ・オダサク」の出演者らが墓参した。夏には大阪市内で映画祭「織田作之助と仲間たち」が企画され、秋には企画展も予定されている。

盛岡の研究家が友人から見た啄木論を刊行

盛岡の研究家が友人から見た啄木論を刊行
 岩手県盛岡市出身の歌人、石川啄木(1886~1912年)が、歌集「一握の砂」に収められた短歌で名前を詠んだ友人、小林茂雄氏(1886~1952年)の生涯をたどった「啄木の友人 小林茂雄」が刊行された。まとめたのは、国際啄木学会理事で近代文学研究家の盛岡市在住の森義真さん(59)。小林さんは啄木の1学年下で、啄木が盛岡中学校(現在の盛岡一高)時代に主宰した短歌グループ「白羊会」で一緒に活動した。作品では、小林氏の生涯をたどりながら、啄木が小林氏に宛てた手紙の解説を盛り込み、友人の視点から見た啄木論を展開している。

与謝野晶子 直筆短歌103首 原稿岡山で発見

与謝野晶子の直筆短歌103首収めた原稿岡山で発見
 岡山県倉敷市に寄贈された薄田泣菫の書簡類の中から、歌人・与謝野晶子直筆の短歌103首が収められた原稿用紙が見つかった。親交が深かった同市出身の詩人、泣菫に新聞掲載用に送った作品で、うち16首は未発表とみられる。短歌はB4サイズの原稿用紙12枚に黒インクのペンで記されていた。
 「街行けば涙ぐまるるおもひでの必ずわきぬまづしきがため」「砂踏むを焼けむとそしり網小屋の蔭をあゆめり物思ふ人」「物思ふ萱の葉などと並ぶ時今こし方のわれもうらめし」「髪よりも静かなるなし夕ぐれの山の色よりみづうみよりも」など16首は新聞紙面や晶子の全集に掲載が確認できず、未発表という。また、計15首を綴った2枚の原稿用紙には「紫影抄」と題名が付けられ、欄外に「一度にお載せ下さい」と朱筆で書き添えられていた。

中国の「書聖」王義之の書の写し見つかる

中国の「書聖」王義之の書の写し見つかる
 東京国立博物館(東京都台東区)は、4世紀の中国・東晋時代の「書聖」と呼ばれる書家、王義之(おうぎし、303~361年、諸説あり)の書の写しが見つかったと発表した。この貴重な写しは、縦25.7㌢、横10.1㌢の紙に3行にわたり24文字で書かれ、手紙の一部とみられる。同館の富田淳・列品管理課長が鑑定した。王義之の写しと判断した根拠は①写した文字の輪郭の内側を墨でうめる「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」という高度な手法で書かれている②王義之の息子「期」らの名前や、よく用いた表現「日弊」がある③「妹至帖(まいしじょう)」などに字姿がよく似ている-など。
 筆使いや文面などから、7~8世紀の唐代に宮中で制作されたものの一部とみられる。王義之は楷書、行書、草書を芸術的な書体へと完成させ、古今第一の書家。優雅で力強い書風は、唐の太宗皇帝など歴代皇帝が愛好した。

現代語の新作能「世阿弥」4月 上演 生誕650年記念

現代語の新作能「世阿弥」4月に上演 生誕650年記念
 能の大成者・世阿弥の生誕650年を記念し、4月に新作能「世阿弥」が上演される。これは現代語による上演で、哲学者の梅原猛の作品を、能楽師の梅若玄祥が演出・主演する。世阿弥と子・元雅の情愛と葛藤、政治と芸術の相克を、現代人の心情に照らして、分かりやすく現代の言葉で描く異色の新作能となる。上演は4月19、20日に国立能楽堂。共演者は能楽師の大槻文蔵、狂言師の野村万作ら。

12日~皇居・東御苑 明治の元勲 肖像写真 初公開

12日から皇居・東御苑で明治の元勲の肖像写真を初公開
 明治の元勲らの肖像写真を紹介する企画展「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』四五〇〇余名の肖像」が、1月12日から3月10日まで皇居・東御苑にある三の丸尚蔵館で開催される。写真はすべて初公開で、明治天皇が1879年、信頼する臣下らの写真を手元におきたいとして、当時の宮内省のトップ宮内卿に「写真帖」の編纂を命じ、大蔵省印刷局の写真撮影所が作成を担当した。

大きな歯持つ太古の鳥の化石発見 中国・遼寧省

大きな歯持つ太古の鳥の化石発見 中国・遼寧省
 米国、中国の研究チームは1月7日、中国・遼寧省の白亜紀初期の地層から、恐竜のように大きく硬い歯を持つ1億2000万年以上前の鳥類の化石を発見したと発表した。恐竜から鳥に進化した際の名残りと考えられ、硬い殻を持つカニや昆虫を食べていたらしい。こうした硬いエナメル質まで残る大きな歯を備えた鳥の化石は初めてという。

マチスの盗難絵画 25年ぶり英国で発見

 英国メディアによると、25年以上前にスウェーデンの首都ストックホルムの美術館から盗まれたフランスの画家アンリ・マチスの作品が、このほど英国で見つかった。発見されたのは「Le Jardin(庭園)」と題された作品で、100万㌦(約8700万円)相当の価値があるという。1987年に盗難に遭い、行方が分からなくなっていた。

成長著しいジャカルタで働きがい求める20代日本人増える

 いまの日本社会に存在する様々な旧弊を嫌悪し、若い世代の日本人がインドネシア、タイなどで”就活”する動きが増えている。
 インドネシアの首都ジャカルタの日系企業で働く20歳代の日本人の若者に共通するのは「自分が簡単に入れ替え可能なパーツではなく、人材として必要とされている」「成長する経済・社会の中に身を置き、やりがいを実感したい」などの、日本ではもはや体感することのできない、強い思いだ。そうした思いを叶えられる場所、「若者が夢、野望を抱ける国」として、彼らはジャカルタを選んだのだ。
 しかし、なぜ海外なのか、ジャカルタなのか、シニア以上の世代には端的には理解しにくいところだ。しかし、1990年代以降、日本が「失われた20年」と揶揄(やゆ)されるように、実は彼らは日本経済の「成長を知らない子供たち」なのだ。かつて”エコノミック・アニマル”と称されたように、日本の代名詞でもあった経済の強い成長力は衰え、この20年で国際関係も経済のしくみも、人口構成も大幅に変わったのに、制度改革がそこに追いついていない。日本にはびこる「学歴主義」「社歴至上主義」など、偏見なく外国に目を向ける彼らは若者独特の鋭敏さで、こうした旧弊を忌み嫌い、職場に漂う「抑圧感」「窮屈さ」に直感的に抵抗を覚えるのだ。
 いまの25歳が物心ついたころ、日本ではバブル経済が崩壊した。10歳のころ、生産年齢人口(15~64歳)がピークを打ち、下り坂になった。一時的な現象と思われていた不況が、不幸にもそれが当たり前となるような時代に思春期を過ごした世代だ。
 日本からのインドネシア進出企業は1255社。日本式ビジネスを理解した日本人を求める企業の求人は増え、現地では常時100件以上に上っているという。現地採用された日本人の平均給与は手取りで1700~3000㌦(14万~25万円)前後。物価水準は日本の1/3~1/4のため生活に不自由することはない。
 だからこそ、「どうせなら、未来の感じられる国で」「自分が、働く国の経済に一役買っている気持ちを持てて、日々やりがいがある」などの思いを実感できるジャカルタが、彼らが望む働く場所としての条件を揃えているのだろう。

太平洋戦争末期 海軍も移転準備を始めていた

太平洋戦争末期 海軍も移転準備を始めていた
 太平洋戦争末期に空襲を避けるため、天皇や政府機関の移転先として長野市一帯に陸軍主導で建設されたのが「松代大本営」だが、このほど同市の民家で海軍部隊名入りの「表札」が保管されていたことが分かった。表札は長野市安茂里地区の塚田興造さん(74)方で見つかり、木製で「海軍薗田部隊士官宿舎」と記されていた。海軍は当初、この移転計画に反対していたが、実際には移転準備を始めていたことを裏付けるもの。このほか、塚田さんの祖父の日記で海軍関係者が移転準備で滞在した記録や、海軍関係者が残した食器などがあるという。