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小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

 小姉君(おあねのきみ)は蘇我稲目(いなめ)の娘で、同様に欽明天皇の妃となった姉・堅塩媛(きたしひめ)とともに、大和朝廷における蘇我氏の勢力台頭および権力拡大に貢献した女性の一人だ。小姉君は、欽明天皇との間に5人の皇子・皇女を産んだ。茨城皇子(うばらきのみこ)、葛城皇子(かずらきのみこ)、穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとの ひめみこ、聖徳太子の母)、穴穂部皇子(敏達天皇の弟)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)がそれだ。ただ後年、この小姉君系の皇子たちは悲しい運命をたどった者が多く、姉の堅塩媛系と明暗を分けた。

 蘇我氏は古代史における最大の氏族で、馬子の時代から蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)などが大王家に対して専横を極め、大化改新で滅ぼされたという悪のイメージが強い。だが、この蘇我氏、実は6世紀初頭に稲目が突然、大臣(おおおみ)として出てくるまでは、歴史に登場してくることもあまりなかった謎の多い氏族なのだ。突然、勃興して、古代史の一番のキーポイントを握る存在となった割には、『古事記』『日本書紀』における稲目以前の記述があまりにも簡単すぎる。

『古事記』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などをもとに、蘇我氏の系譜をたどってみると、祖先は伝承の人物・武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰から始まり、満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目と続く。満智からが実在の人物とされている。韓子、高麗も百済の名前なので、蘇我氏は百済系渡来人の総領家として漢(あや)氏や秦(はた)氏を従え、大伴氏や物部氏らの軍事家系ではなく、財政を管理する新しい官僚として登場。大和政権の財政を仕切った氏族だった。

 蘇我氏台頭のいま一つの大きな要因が、聖徳太子の事績にあるように仏教を、熱意を持って取り入れたことと、稲目が大王=天皇の妃に堅塩媛・小姉君の2人の娘を入れて大王家の外戚になったからだ。馬子時代以降の蘇我氏隆盛の要因は、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君の姉妹による閨閥づくりにあるが、この姉妹のその後の生涯はなぜか明暗を分けた。用明天皇、推古天皇が皇位に就き繁栄を続ける姉・堅塩媛系に対し、小姉君系はどうしたわけか悲運をたどった。

   小姉君系のその一人、崇峻天皇は同じ蘇我氏一族でありながら、馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)に殺害されているし、聖徳太子も母方は小姉君系であり、太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)もやがて、入鹿(馬子の孫)に一族を滅ぼされているのだ。馬子-入鹿らはなぜ、同じ父、そして祖父にあたる稲目の娘・堅塩媛系を正統視し、小姉君系を排斥・排除していったのか。

     もちろん、これには有力豪族、物部氏との対立を抜きには語れない。対立の構図は「堅塩媛-用明天皇-蘇我馬子」と「小姉君-穴穂部皇子-物部守屋」だ。587年(用明2年)、用明天皇が逝去。守屋は皇位継承者に穴穂部皇子を推した。兄弟相続なら、用明天皇の次は穴穂部だ。これに対して、謀略家の馬子は兄弟相続の慣習を踏まえながらも、小姉君系の勢力を分断させるという秘策に出た。馬子は穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を担ぎ出したのだ。そして、穴穂部と当時、険悪な状態にあった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のちの推古天皇、母は堅塩媛)に取り入り、穴穂部皇子と宅部皇子(欽明天皇の皇子、穴穂部派)の殺害の詔(みことのり)を出させて、この二人を殺してしまったのだ。この結果、守屋は擁立すべき穴穂部皇子を失い、いよいよ孤立していった。

 こうしてみると、『日本書紀』に記されている同母姉妹の堅塩媛と小姉君は、やはり真っ赤なウソで、二人は実は姉妹ではなかったのではないか-と考えざるを得ない。確かに系図上は姉妹として記されてはいるのだが、これは体裁を繕っているに過ぎず、何か重大な謎が隠されているに違いない。確かに、馬子にとって、対立していた物部守屋との戦いを勝利に導くための策略重視の側面を割り引いても、どうして実姉(小姉君)が産んだ皇子たち(=馬子にとっては甥)をあれほど簡単に殺害できるのか。容易に答えは出てこない。とすれば、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹ではなく、小姉君は馬子にとってよほど対立関係にあった人物を母に持っていたのではないかと推察される。

   小姉君の生没年は不詳。史料によると、小姉君は絶世の美女だったようだ。気品にあふれ、はたを圧する、近寄り難いほどの容姿・容貌に恵まれていたと思われる。これに対し、姉の堅塩媛は並みの容貌だった。そこで、小姉君に対し、逆らい難い嫉妬心が生まれ、堅塩媛本人はもとより、この姉に同情した弟・馬子の意を受けた忠臣・関係者が、小姉君を孤立化させる動きをしていったとの指摘もある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、神一行編「飛鳥時代の謎」永井路子「冬の夜、じいの物語」

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

 周防内侍(すおうのないし)は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045~1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。

 周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。

 「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」

 これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。

 『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。

 早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。

 そして、この続きがある。忠家は

 「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか-という意味だ。

 こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。

 平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

 式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。

 式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)~1201年(建仁元年)。

 式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから-というものだ。

 下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。

 大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。

 式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。

 謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。

 式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

 山川登美子は、与謝野鉄幹が主宰した『明星』の初期の同人で、鳳晶(ほうしょう=後の与謝野晶子)と才華を競った女流歌人だ。師・与謝野鉄幹への思慕を断ち、親の決めた許婚と結婚。そのため、一時、歌から離れたが、不幸にも夫と死別して再び『明星』に復帰した。ところが、不運にも夫の病んだ結核に自らも冒され、30歳の若さで亡くなった。登美子の生没年は1879(明治12)~1909年(明治42年)。

 山川登美子は、福井県遠敷(おにゅう)郡竹原村(現在の小浜市)で、父・山川貞蔵の四女として生まれた。生家は小浜藩主・酒井家に側用人御目付役として仕えた、由緒ある家柄だった。父貞蔵は小浜第二十五国立銀行(現在の福井銀行)の頭取を務めた。登美子の本名はとみ。雲城高等小学校在学中は学業成績抜群で、習字・和歌・絵に才能を発揮した。

 登美子は1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール、梅花女学校に入学。大阪に嫁いでいた長姉いよ宅から通学した。1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)、母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に登美子の歌が掲載された。そして、鉄幹と、翌年、鉄幹と結婚することになる与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会った。また、登美子はこのころ、鉄幹が創立した東京新詩社の社友となった。

 鉄幹と出会い、歌人として目覚めた登美子は、本格的に和歌の世界にのめり込み、『明星』を舞台に「白百合」の号で、与謝野晶子と歌才を競った。これから女流歌人として歩を進めようかとした矢先、登美子は突然思いもよらない行動に出た。歌の世界へ自分を導いた鉄幹への思慕を断ち、1901年(明治34年)、親の勧めた縁組に従って、山川駐(とめ)七郎と結婚したのだ。登美子22歳のときのことだ。

 この点、大阪府堺市の商家で育った与謝野晶子と比較すると対照的だ。武家の重臣の家柄に育った登美子は、自己規制ができる忍耐強い性格だった。これに対して、晶子は奔放華麗で、自分の思いは、親の意向に背いてもやり遂げる性格だった。登美子の親も『明星』に歌が掲載され評判になるのを好まず、女の身で世間に目立つようなことをさせたくないと考え、密かに縁談を進めていたのだ。登美子自身も、親の意思に背くことは親不孝と捉えてもいたのだろう。

 登美子にとって、そんな一大決心のもとにスタートさせた結婚生活だったが、不幸にも夫が病気を患って、看病の甲斐なく亡くなり、あっけなく終わりを告げる。肺結核だった。25歳で、寡婦(未亡人)となった登美子は心機一転、1904年(明治37年)、大阪の梅花女学校在学時の第四代校長・成瀬仁蔵が創設した日本女子大学英文科予科に入学し、1907年(明治40年)3月まで同校に在学。その間、復帰した『明星』に「白百合」の号で短歌131首を収載した。鉄幹・晶子との交流も密になった。鉄幹は、登美子を“白百合の君”と称し、愛した。そして1905年(明治38年)、当時の若い世代に圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作品との評価を受けた合同詩集『恋衣(こいごろも)』を茅野(増田)雅子、与謝野晶子との共著で本郷書院から刊行し、登美子は歌人として再起した。

 今度こそ、登美子は女流歌人として、さらに飛躍の時期を迎えるはずだった。ところが、またもそれを阻止する不幸が襲う。登美子自身が、夫から伝染した肺結核に犯されていたのだ。それでも病状が進行する中、孤独の中で自らの生を、そして死をみつめ、感覚を研ぎ澄まし、独自の歌境を拓いた。しかし、1909年(明治42年)、登美子は生家でわずか30年の生涯を閉じた。

 登美子の後半生は悲劇的だった。第二の人生ともいうべき結婚生活で、まず夫、次いで父を喪(うしな)い、長兄、長姉の死が彼女を襲った。さらに自らも肺結核という死病の床に臥す生活だった。それだけに、普通なら来世は今生とは全く異なる人生を、病気に打ち克つだけの強健な肉体を持つ、たとえば男に生まれ変わりたいと願っても、なんら不思議ではない。ところが、登美子はなお堂々と、来世も女に生まれたいもの-と歌に歌っている。次の歌がそれだ。

 「をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし月もなつかし」

 志半ばで、遂げられなかった歌の世界への、そして鉄幹への敬慕の思いを、来世ではきっと成就させたいとの哀切の思いからなのか。

 また、辞世は

 「父君に召されていなむとこしへの 春あたたかき蓬莱のしま」

 登美子を顕彰して、彼女が入学してから100年目を迎えた1994年、出身校の梅花女学校(現在の梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。

(参考資料)渡辺淳一「君も○○栗(こくりこ) われも○○栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

 斎宮女御(さいぐうのにょうご)は、父は醍醐天皇の第四皇子・重明(しげあきら)親王、母・左大臣・藤原忠平の二女・寛子(かんし)との間に生まれ、当初、徽子女王(きしにょおう)と呼ばれた。が、8歳から10年間、伊勢神宮の斎宮を務めたため、都へ戻って3年、20歳で叔父にあたる村上天皇の女御として入内したが、後世、その前歴ゆえに「斎宮女御」と称された。また、斎宮女御は三十六歌仙の中でも5人(伊勢・小野小町・斎宮女御・小大君=こおおきみ・中務=なかつかさ)しかいない女流歌人の一人で、しかも唯一の皇族歌人だった。歌才に優れていた彼女は、絵もよくし、琴の名手でもあった。

 斎宮女御の生没年は929(延喜7)~985年(寛和元年)。936年(承平6年)、徽子女王は8歳で朱雀天皇の斎宮に卜定(ぼくじょう=吉凶を占い定めること)、母・寛子御息所の服喪で退下(たいげ)するまで10年間その任を務めた。未婚の皇女が都を遠く離れた伊勢神宮で、ひたすら神に仕える生活を送るのは、哀れを誘うことも多い。しかし彼女の場合、係累の力関係は並ではなかった。当代の権勢を誇る関白・藤原忠平の孫である徽子女王は、都へ戻って3年、20歳で村上天皇の女御として入内することができた。その住まいから承香殿(しょうきょうでん)女御とも呼ばれた。

 入内の後朝(きぬぎぬ)、村上天皇は例に従い、女御に歌を贈る。

 「思へどもなほぞあやしきあふことの なかりし昔いかで経つらむ」

 逢ってあなたを知る昨夜まで、私がどうして過ごしてきたのか。それが不思議におもわれるほど、あなたは素敵な人だ。これに対する女御の返しは

 「昔ともいまともいさや思ほへず おぼつかなさは夢にやあるらむ」

 昔なのか今なのか、いずれにしてもこの切なさは、この想いがきっと現実ではなく、夢のできごとだからなのでしょう-というものだ。こんな愛の交歓があって翌年、規子(きし)内親王が誕生している。

 しかし、そんな時期は長くは続かない。天皇の渡りが途絶えた寂しい日には、琴の名手でもあった彼女は、ひとり琴を爪弾くこともあった。ある秋の夕暮れ、妙なる琴の調べに誘われて天皇が承香殿に赴いてみると、彼女はそばに人の気配があるのにも気付かず、琴を弾きながら次の歌を吟唱していた。

 「秋の日のあやしきほどの夕暮れに 荻(おぎ)吹く風の音ぞきこゆる」

 秋の日、とりわけ人恋しい想いのする夕暮れに、お慕い申し上げる方は来てくれない。私のもとに訪れるのは、ただ荻の葉を吹く風の音だけ…。哀切なる想いがひしひしと伝わってくる。

 村上天皇崩御後、今度は規子内親王が円融天皇の斎宮として卜定、977年(貞元2年)、伊勢へ赴くことになった。わずか8歳で斎宮となった徽子女王=斎宮女御とは異なり、29歳になっての斎宮就任は、有力な後ろ楯がない薄幸を意味する。気が付けば華やかな係累は、いつの間にか遠い過去のものとなっていたのだ。そこで、斎宮女御は意を決して、一緒に伊勢へ行き、その寂しさを慰めた。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

 月花門院(げっかもんいん)は、正確には月花門院綜子(そうし)内親王といい、皇統が二派に分かれてしまう両統迭立(てつりつ)の禍いの基をつくった第八十八代後嵯峨天皇の第一皇女だ。『増鏡』によると、月花門院には四辻宮(よつじのみや)と基顕中将の二人の恋人がいて、そのいずれとも父の分からぬ子を宿し、流産(堕胎?)のために夭折したと記されている。月花門院23歳のときのことだ。

 月花門院(月華門院とも)の諱は綜子。母は西園寺実氏の娘、大宮院。高貴な血筋で後深草院の同母妹で、亀山院の同母姉だ。生没年は1247(宝治元)~1269年(文永6年)。月花門院は1247年(宝治元年)、生まれるとともに内親王宣下。1248年(宝治2年)安嘉門院邦子内親王の猶子となった。両親の寵愛を受け1263年(弘長3年)、17歳のとき准三宮並びに院号宣下。以後、月花門院を称した。

 鎌倉時代の都の貴族は、武家に権力を奪われて地盤が沈下していく中、過去の栄光が忘れられずにもがいた人々と、新しい時代に適応している人たちに分かれていた。そして幕府は、その両勢力の争いに乗じて着々と政権の基盤を固めていた。そんな時代状況の中で、綜子内親王は高貴の人々の中でも最も恵まれた境遇にあったはずだ。しかし、男と女の世界の恋の成就に、貴賎はあまり関係しなかったようだ。彼女が詠んだ歌の多くが、恋の悲傷の歌なのだ。

 「秋の来て身にしむ風の吹くころは あやしきほどに人ぞ恋しき」

 これは実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家の娘)に贈った歌だ。歌意は、秋が来て身に沁みる風の吹くころには、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。贈った相手は女性で、いわば友情の歌なのだが、詠み込まれた心情は、やはり恋の悲愁だろう。

 「ちぎりおきし花のころしも思ふかな 年に稀なる人のつらさは」

 歌意は、稀にしか逢うことができない恋人と、「花のころに逢う」との約束を思うにつけても、切なさで心がいっぱいになってしまいます。世間をはばかる事情があって逢えないのか、ただひたすら恋人の訪れを待つ皇女の姿が浮かんでくるようだ。

 「いかなればいつともわかぬ夕暮れの 風さへ秋は恋しかるらむ」

 歌意は、どういうわけか、いつも決まって何ということもない夕暮れの風さえ、秋は悲しみを催させるのでしょうか。この歌は秋と風と夕暮れを詠み込んで、自然を見つめて人生を沈思する中世の人々の感受性を表現している。が、同時に人を恋することの悲しさと危うさを知り尽くしたような、悲恋の皇女の叫びが聞こえてくるような歌でもある。

 1266年(文永3年)、完成披露された『続古今集』には、月花門院綜子内親王の歌が20歳の若さで8首入集している。また『続古今集』以後の勅撰集に彼女の歌21首が収められている。そして1269年(文永6年)、彼女は23歳で急逝した。『増鏡』によると、月花門院は中将・源彦仁(順徳院の孫、忠成王の子)および、頭中将・園基顕の二人と密通し、子を身籠った末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」