「歴史を彩ったヒロイン」カテゴリーアーカイブ

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

 正親町町子(おおぎまちまちこ)は、藤原北家閑院流、羽林家の家格を有する由緒ある公家の娘だが、江戸時代前期、16歳のころ江戸へ下向して、柳沢保明(後の徳川五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保)の側室となった女性だ。才媛として知られた彼女が、夫・柳沢吉保の幕閣としての栄華と精進を細やかに綴った『松蔭日記』は今日に至るまで高い評価を得ている。

 正親町町子は、権大納言正親町実豊の庶腹の子、神道家公通の異母妹。初名は弁子。町子の生年は1675年(延宝3年)ごろ、没年は1724年(享保9年)。1691年(元禄4年)、江戸へ下向して柳沢吉保(当時は保明)の側室となった。ただ、正親町家というのは、一大名の側室としては家格が高すぎ、全く釣り合いが取れないため、母方の姓の田中氏を名乗った。

 なぜ、このような不釣合いな婚儀が成立したのか。それは、町子の母が御所時代の右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね、宮中時代は常盤井局=ときわいのつぼね)に仕えていた縁による。右衛門佐局は将軍生母とはなれなかったが、将軍綱吉の御台所・信子に請われて綱吉の御手附中臈となった才色兼備の女性で、最終的に大奥総取締の役に就いている。

 高貴の家格から迎えた妻の好印象も手伝って、夫・柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、幕府大老格・将軍側用人として権勢を振るうまでに大出世した。そして、町子は1694年(元禄7年)、1696年(元禄9年)にそれぞれ吉保の四男・経隆、五男・時睦を産んだ。

 公家から、武家へ嫁いだ町子の心境の一端を示す歌がある。

 「さかゆべき生(おひ)さき見えて今よりや にひ玉松の陰しげるらん」

 朝廷、そして由緒ある公家といえども、「禁中並びに公家諸法度」の統制の下に置かれ、徳川の治世が磐石になったこの時代。公卿の姫たちの最高の出世は、将軍・諸侯の側室となることだった。それが家門の、つまり家計のためだった。彼女たちが帯びた、その悲しい使命を理解せずには味わえない歌だ。

 武家側も、ある程度立身すれば、少々、背伸びをしてでも京都から公家の姫君を側室に迎え、家門にハクをつけることに躍起になった面もあったのだ。こうして、双方の利害が一致、今日風に表現すれば政略結婚が成立していったというわけだ。

 町子が著した『松蔭日記』は、近世女流文学中の出色のものという評価もある。これは、実直に勤める夫・吉保が栄え、そして仕えた綱吉没後に隠居していくまでを描いたものだ。大地震や火事による焼失のときの人々の動きや再建される様子、病気見舞い、回復祝いに、お祝い返し、新築祝いに、お祝い返しなど、とにかく日々のできごとを客観的に書いている。そして、これが大きな特徴なのだが、文章の至るところに古書(古典・古文)の一文を意識した言葉が散りばめられているのだ。和歌文学者的素養がなければ書けない作品だ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

 森田無絃(もりたむげん)は、幕末から明治にかけて生きた関西の女学者だ。当時としては珍しい、女性の学者が生まれるについては、彼女自身が非常な学問好きだったことはもちろんだが、幼いころ痘瘡を患ったこともあって、世にも稀なブスだったため、彼女の父が恐らく嫁の貰い手がない娘を不憫に思い、せめて本人の好きなことをさせてやりたいと考え、親しい学者に娘を預けたためだ。

 森田無絃は摂津国高槻藩(現在の大阪府高槻市)藩士、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)の娘だ。本名は琴子。小倉琴子は幼いころ痘瘡を患い、稀に見る不器量な娘だった。同じ女に生まれて、どうしてこうも違うのだろうと恨み言を言いたくなるほどだったという。ただ、彼女は非常に学問が好きで、娘時代から「秋花園(しゅうかえん)」という号を名乗っていた。森田無絃の生没年は1826(文政9)~1896年(明治29年)。

 父の藤左衛門は娘の学問好きを見込んで、親しい大坂の学者、藤沢東畡(ふじさわとうがい)のところに預けた。不器量な顔に生まれた娘に、せめて女学者として、名でも立ててくれれば、それなりの生き方ができるだろう-と考えたからだ。

 琴子が師とした藤沢は、日本の国体にも深い関心を寄せ、「天皇の系統による国体は、孔子の学説に叶っている」と唱えていた。琴子は学問を学びながら、藤沢家の家事の手伝いをするという、いわゆる内弟子だった。藤沢のもとには数多くの男の学生がいた。琴子は、藤沢が学問を教え始めると、その若い男の学生たちの後ろで、ひっそりと師の教えを聴いていた。だが、若い男子学生で、琴子に関心を寄せる者は誰もいなかった。琴子の器量が悪かったので、家事のお手伝いさんが、暇をみて先生の学問を片隅で聞いているのだろう-という程度にしかその存在を考えなかった。

 しかし、娘の琴子にとっては、そうした現実はショックだった。やはり同世代の男に目を向けてもらいたい。それがないため、彼女は次第に孤独になっていった。そうなると、自分でつけた「秋花園」という名前が、何か空々しくなった。美しくもないのに、秋の花の園などと名乗ることが、おこがましくも感じられた。そこで、彼女はその後、「無絃」と名乗るようになった。無絃の「絃」は琴に張った糸のことだ。自分の名が琴子なので、「絃の無い琴」という思いを込めたのだ。

 そんな琴子にとって、予想もしていなかったことが起こる。琴子を嫁に貰いたいという変わった男が現れたのだ。琴子が29歳のときのことだ。夫となったのは大和国(現在の奈良県)の儒学者、森田節斎(せっさい、44歳)だ。森田節斎は、幕末の“奇人学者”の一人だ。大和・五条の医者の息子に生まれた彼は、家業を継がないで、学問を修めた。世の中を鋭く見る目も持っていて、時世に合わせた学説を唱えるので、人気があった。そして、彼は大坂から関西地方を転々として歩き回った。頼山陽と非常に仲良くなった。江戸へも出て学んだ。後には、節斎の学問を慕って、長州(現在の山口県)の吉田松陰をはじめ遠くから訪ねてくる門人が何人もいた。

 節斎の学説は、尊皇論だ。ただ、彼は詩人だったので、尊皇倒幕を現す具体的な方法まで教えることができなかった。端的にいえば、若者たちを煽動して歩いていたのだ。ただ、1854年(安政元年)、44歳になっていたが、まだなぜか独身だった。高槻藩の鉄砲奉行に友人がいた。その友人の伝手で琴子のことを聞き、その彼女が藤沢の内弟子になっていると教えられた。節斎は藤沢とは旧知の仲だった。

 そこで、節斎はすぐ藤沢を訪ね、琴子を妻にしたい旨伝え、琴子本人と会った。そして、思わず心の中でアッと声をあげた。余りにも不器量だったからだ。だが、彼はそんなことでへこむような男ではなかった。琴子を藤沢門下一の女学者よ、と名指したうえで、節斎は「失礼だが、その器量で私以外の誰のところに嫁に行こうと考えておられますか?」と切り出した。押し付けがましい言い方だった。が、琴子は逆らわなかった。師の藤沢から節斎の噂を嫌というほど聞いていたからだ。藤沢は節斎を誉め称えていた。その本人にいま会っているのだ。琴子は、節斎を見返しながら、「いま日本で第一の文章家だとうかがっております森田節斎先生が、私を妻にしてくださるのでしたら、私は半分は師、半分は夫として仕えます」と答えた。

 節斎は琴子と結婚した。友達が「節斎先生、えらい美人をお貰いになったそうだな?」とからかった。節斎は平然と笑っていた。そして、自分のつくった俳句を示した。『どぶろくも 酒とおもえば 酒の味』これには友人たちも大笑いした。しかし、どぶろくに例えながらも、決して琴子をばかにしていないことを知って、それ以後はからかわなかった。 事実、節斎は琴子を尊敬していた。その学殖の深さと、文章力の確かさは、時折節斎を超えた。

 大和・五条は南北朝時代には南朝と縁の深いところだ。尊皇精神は脈々と続き、節斎にもその血は流れていた。節斎は付近の農民たちを集めて、いつか天皇の役に立つ兵士を育てようと、集団訓練を始めた。ところが、節斎にとっては想定外のことが起こった。中にいた過激派が京都の公家、中山忠光を担ぎ出し、「天誅組の乱」を起こしたのだ。乱はすぐ鎮圧されたが、幕府側は「この乱を裏で煽動したのは、森田節斎という勤皇学者だ」と狙い始めた。

 節斎と琴子は、五條にいられなくなって、中国地方に逃れた。倉敷で塾を開いた。このころから、節斎と一緒に弟子たちを教えていた琴子の発言力が強くなった。弟子を選んだり、あるいは追放したりすることに、琴子が干渉した。ある身持ちの悪い弟子をめぐって二人は言い合いになり、節斎は琴子を離縁してしまった。生まれた息子を節斎のもとに置き、傷ついた琴子は大坂に戻って、小さな塾を開いた。もう一人の女学者として十分に生活できた。一方、子供の面倒をみながら、倉敷にもいられなくなった追われる身の節斎は、放浪生活を続けた。そうなると、節斎の頭の中には琴子の姿がちらついた。

 森田節斎は、遂に幕府の権力に屈した。転向宣言をしたのだ。節斎の号を「愚庵(ぐあん)」と改めた。やがて、幕府が倒れた。明治維新になると、節斎と親しかった、いまは新政府の役人になっている春日潜庵(かすがせんあん)が心配して、節斎を探し回った。そして、「琴子さんのところに戻れ」と説得した。二人を迎えた琴子は、育った息子を抱きしめて泣き続けた。節斎は「やっと琴のところに戻ってきた」といった。涙の顔をあげた琴子はこういった。「いいえ、私は琴でも絃がありませんでした。あなたが私の絃だったのです。絃の無い毎日は、本当にさびしゅうございました…」。負け惜しみの強かった節斎は、頷きながら、思わずホロリと涙を落とした。家族の“きずな”が復活した瞬間だった。

 森田無絃の主な著作に『地震物語』『呉竹一夜話』などがある。

(参考資料)童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

 小姉君(おあねのきみ)は蘇我稲目(いなめ)の娘で、同様に欽明天皇の妃となった姉・堅塩媛(きたしひめ)とともに、大和朝廷における蘇我氏の勢力台頭および権力拡大に貢献した女性の一人だ。小姉君は、欽明天皇との間に5人の皇子・皇女を産んだ。茨城皇子(うばらきのみこ)、葛城皇子(かずらきのみこ)、穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとの ひめみこ、聖徳太子の母)、穴穂部皇子(敏達天皇の弟)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)がそれだ。ただ後年、この小姉君系の皇子たちは悲しい運命をたどった者が多く、姉の堅塩媛系と明暗を分けた。

 蘇我氏は古代史における最大の氏族で、馬子の時代から蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)などが大王家に対して専横を極め、大化改新で滅ぼされたという悪のイメージが強い。だが、この蘇我氏、実は6世紀初頭に稲目が突然、大臣(おおおみ)として出てくるまでは、歴史に登場してくることもあまりなかった謎の多い氏族なのだ。突然、勃興して、古代史の一番のキーポイントを握る存在となった割には、『古事記』『日本書紀』における稲目以前の記述があまりにも簡単すぎる。

『古事記』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などをもとに、蘇我氏の系譜をたどってみると、祖先は伝承の人物・武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰から始まり、満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目と続く。満智からが実在の人物とされている。韓子、高麗も百済の名前なので、蘇我氏は百済系渡来人の総領家として漢(あや)氏や秦(はた)氏を従え、大伴氏や物部氏らの軍事家系ではなく、財政を管理する新しい官僚として登場。大和政権の財政を仕切った氏族だった。

 蘇我氏台頭のいま一つの大きな要因が、聖徳太子の事績にあるように仏教を、熱意を持って取り入れたことと、稲目が大王=天皇の妃に堅塩媛・小姉君の2人の娘を入れて大王家の外戚になったからだ。馬子時代以降の蘇我氏隆盛の要因は、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君の姉妹による閨閥づくりにあるが、この姉妹のその後の生涯はなぜか明暗を分けた。用明天皇、推古天皇が皇位に就き繁栄を続ける姉・堅塩媛系に対し、小姉君系はどうしたわけか悲運をたどった。

   小姉君系のその一人、崇峻天皇は同じ蘇我氏一族でありながら、馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)に殺害されているし、聖徳太子も母方は小姉君系であり、太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)もやがて、入鹿(馬子の孫)に一族を滅ぼされているのだ。馬子-入鹿らはなぜ、同じ父、そして祖父にあたる稲目の娘・堅塩媛系を正統視し、小姉君系を排斥・排除していったのか。

     もちろん、これには有力豪族、物部氏との対立を抜きには語れない。対立の構図は「堅塩媛-用明天皇-蘇我馬子」と「小姉君-穴穂部皇子-物部守屋」だ。587年(用明2年)、用明天皇が逝去。守屋は皇位継承者に穴穂部皇子を推した。兄弟相続なら、用明天皇の次は穴穂部だ。これに対して、謀略家の馬子は兄弟相続の慣習を踏まえながらも、小姉君系の勢力を分断させるという秘策に出た。馬子は穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を担ぎ出したのだ。そして、穴穂部と当時、険悪な状態にあった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のちの推古天皇、母は堅塩媛)に取り入り、穴穂部皇子と宅部皇子(欽明天皇の皇子、穴穂部派)の殺害の詔(みことのり)を出させて、この二人を殺してしまったのだ。この結果、守屋は擁立すべき穴穂部皇子を失い、いよいよ孤立していった。

 こうしてみると、『日本書紀』に記されている同母姉妹の堅塩媛と小姉君は、やはり真っ赤なウソで、二人は実は姉妹ではなかったのではないか-と考えざるを得ない。確かに系図上は姉妹として記されてはいるのだが、これは体裁を繕っているに過ぎず、何か重大な謎が隠されているに違いない。確かに、馬子にとって、対立していた物部守屋との戦いを勝利に導くための策略重視の側面を割り引いても、どうして実姉(小姉君)が産んだ皇子たち(=馬子にとっては甥)をあれほど簡単に殺害できるのか。容易に答えは出てこない。とすれば、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹ではなく、小姉君は馬子にとってよほど対立関係にあった人物を母に持っていたのではないかと推察される。

   小姉君の生没年は不詳。史料によると、小姉君は絶世の美女だったようだ。気品にあふれ、はたを圧する、近寄り難いほどの容姿・容貌に恵まれていたと思われる。これに対し、姉の堅塩媛は並みの容貌だった。そこで、小姉君に対し、逆らい難い嫉妬心が生まれ、堅塩媛本人はもとより、この姉に同情した弟・馬子の意を受けた忠臣・関係者が、小姉君を孤立化させる動きをしていったとの指摘もある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、神一行編「飛鳥時代の謎」永井路子「冬の夜、じいの物語」

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

 周防内侍(すおうのないし)は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045~1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。

 周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。

 「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」

 これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。

 『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。

 早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。

 そして、この続きがある。忠家は

 「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか-という意味だ。

 こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。

 平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

 式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。

 式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)~1201年(建仁元年)。

 式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから-というものだ。

 下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。

 大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。

 式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。

 謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。

 式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

 山川登美子は、与謝野鉄幹が主宰した『明星』の初期の同人で、鳳晶(ほうしょう=後の与謝野晶子)と才華を競った女流歌人だ。師・与謝野鉄幹への思慕を断ち、親の決めた許婚と結婚。そのため、一時、歌から離れたが、不幸にも夫と死別して再び『明星』に復帰した。ところが、不運にも夫の病んだ結核に自らも冒され、30歳の若さで亡くなった。登美子の生没年は1879(明治12)~1909年(明治42年)。

 山川登美子は、福井県遠敷(おにゅう)郡竹原村(現在の小浜市)で、父・山川貞蔵の四女として生まれた。生家は小浜藩主・酒井家に側用人御目付役として仕えた、由緒ある家柄だった。父貞蔵は小浜第二十五国立銀行(現在の福井銀行)の頭取を務めた。登美子の本名はとみ。雲城高等小学校在学中は学業成績抜群で、習字・和歌・絵に才能を発揮した。

 登美子は1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール、梅花女学校に入学。大阪に嫁いでいた長姉いよ宅から通学した。1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)、母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に登美子の歌が掲載された。そして、鉄幹と、翌年、鉄幹と結婚することになる与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会った。また、登美子はこのころ、鉄幹が創立した東京新詩社の社友となった。

 鉄幹と出会い、歌人として目覚めた登美子は、本格的に和歌の世界にのめり込み、『明星』を舞台に「白百合」の号で、与謝野晶子と歌才を競った。これから女流歌人として歩を進めようかとした矢先、登美子は突然思いもよらない行動に出た。歌の世界へ自分を導いた鉄幹への思慕を断ち、1901年(明治34年)、親の勧めた縁組に従って、山川駐(とめ)七郎と結婚したのだ。登美子22歳のときのことだ。

 この点、大阪府堺市の商家で育った与謝野晶子と比較すると対照的だ。武家の重臣の家柄に育った登美子は、自己規制ができる忍耐強い性格だった。これに対して、晶子は奔放華麗で、自分の思いは、親の意向に背いてもやり遂げる性格だった。登美子の親も『明星』に歌が掲載され評判になるのを好まず、女の身で世間に目立つようなことをさせたくないと考え、密かに縁談を進めていたのだ。登美子自身も、親の意思に背くことは親不孝と捉えてもいたのだろう。

 登美子にとって、そんな一大決心のもとにスタートさせた結婚生活だったが、不幸にも夫が病気を患って、看病の甲斐なく亡くなり、あっけなく終わりを告げる。肺結核だった。25歳で、寡婦(未亡人)となった登美子は心機一転、1904年(明治37年)、大阪の梅花女学校在学時の第四代校長・成瀬仁蔵が創設した日本女子大学英文科予科に入学し、1907年(明治40年)3月まで同校に在学。その間、復帰した『明星』に「白百合」の号で短歌131首を収載した。鉄幹・晶子との交流も密になった。鉄幹は、登美子を“白百合の君”と称し、愛した。そして1905年(明治38年)、当時の若い世代に圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作品との評価を受けた合同詩集『恋衣(こいごろも)』を茅野(増田)雅子、与謝野晶子との共著で本郷書院から刊行し、登美子は歌人として再起した。

 今度こそ、登美子は女流歌人として、さらに飛躍の時期を迎えるはずだった。ところが、またもそれを阻止する不幸が襲う。登美子自身が、夫から伝染した肺結核に犯されていたのだ。それでも病状が進行する中、孤独の中で自らの生を、そして死をみつめ、感覚を研ぎ澄まし、独自の歌境を拓いた。しかし、1909年(明治42年)、登美子は生家でわずか30年の生涯を閉じた。

 登美子の後半生は悲劇的だった。第二の人生ともいうべき結婚生活で、まず夫、次いで父を喪(うしな)い、長兄、長姉の死が彼女を襲った。さらに自らも肺結核という死病の床に臥す生活だった。それだけに、普通なら来世は今生とは全く異なる人生を、病気に打ち克つだけの強健な肉体を持つ、たとえば男に生まれ変わりたいと願っても、なんら不思議ではない。ところが、登美子はなお堂々と、来世も女に生まれたいもの-と歌に歌っている。次の歌がそれだ。

 「をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし月もなつかし」

 志半ばで、遂げられなかった歌の世界への、そして鉄幹への敬慕の思いを、来世ではきっと成就させたいとの哀切の思いからなのか。

 また、辞世は

 「父君に召されていなむとこしへの 春あたたかき蓬莱のしま」

 登美子を顕彰して、彼女が入学してから100年目を迎えた1994年、出身校の梅花女学校(現在の梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。

(参考資料)渡辺淳一「君も○○栗(こくりこ) われも○○栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

 斎宮女御(さいぐうのにょうご)は、父は醍醐天皇の第四皇子・重明(しげあきら)親王、母・左大臣・藤原忠平の二女・寛子(かんし)との間に生まれ、当初、徽子女王(きしにょおう)と呼ばれた。が、8歳から10年間、伊勢神宮の斎宮を務めたため、都へ戻って3年、20歳で叔父にあたる村上天皇の女御として入内したが、後世、その前歴ゆえに「斎宮女御」と称された。また、斎宮女御は三十六歌仙の中でも5人(伊勢・小野小町・斎宮女御・小大君=こおおきみ・中務=なかつかさ)しかいない女流歌人の一人で、しかも唯一の皇族歌人だった。歌才に優れていた彼女は、絵もよくし、琴の名手でもあった。

 斎宮女御の生没年は929(延喜7)~985年(寛和元年)。936年(承平6年)、徽子女王は8歳で朱雀天皇の斎宮に卜定(ぼくじょう=吉凶を占い定めること)、母・寛子御息所の服喪で退下(たいげ)するまで10年間その任を務めた。未婚の皇女が都を遠く離れた伊勢神宮で、ひたすら神に仕える生活を送るのは、哀れを誘うことも多い。しかし彼女の場合、係累の力関係は並ではなかった。当代の権勢を誇る関白・藤原忠平の孫である徽子女王は、都へ戻って3年、20歳で村上天皇の女御として入内することができた。その住まいから承香殿(しょうきょうでん)女御とも呼ばれた。

 入内の後朝(きぬぎぬ)、村上天皇は例に従い、女御に歌を贈る。

 「思へどもなほぞあやしきあふことの なかりし昔いかで経つらむ」

 逢ってあなたを知る昨夜まで、私がどうして過ごしてきたのか。それが不思議におもわれるほど、あなたは素敵な人だ。これに対する女御の返しは

 「昔ともいまともいさや思ほへず おぼつかなさは夢にやあるらむ」

 昔なのか今なのか、いずれにしてもこの切なさは、この想いがきっと現実ではなく、夢のできごとだからなのでしょう-というものだ。こんな愛の交歓があって翌年、規子(きし)内親王が誕生している。

 しかし、そんな時期は長くは続かない。天皇の渡りが途絶えた寂しい日には、琴の名手でもあった彼女は、ひとり琴を爪弾くこともあった。ある秋の夕暮れ、妙なる琴の調べに誘われて天皇が承香殿に赴いてみると、彼女はそばに人の気配があるのにも気付かず、琴を弾きながら次の歌を吟唱していた。

 「秋の日のあやしきほどの夕暮れに 荻(おぎ)吹く風の音ぞきこゆる」

 秋の日、とりわけ人恋しい想いのする夕暮れに、お慕い申し上げる方は来てくれない。私のもとに訪れるのは、ただ荻の葉を吹く風の音だけ…。哀切なる想いがひしひしと伝わってくる。

 村上天皇崩御後、今度は規子内親王が円融天皇の斎宮として卜定、977年(貞元2年)、伊勢へ赴くことになった。わずか8歳で斎宮となった徽子女王=斎宮女御とは異なり、29歳になっての斎宮就任は、有力な後ろ楯がない薄幸を意味する。気が付けば華やかな係累は、いつの間にか遠い過去のものとなっていたのだ。そこで、斎宮女御は意を決して、一緒に伊勢へ行き、その寂しさを慰めた。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

 月花門院(げっかもんいん)は、正確には月花門院綜子(そうし)内親王といい、皇統が二派に分かれてしまう両統迭立(てつりつ)の禍いの基をつくった第八十八代後嵯峨天皇の第一皇女だ。『増鏡』によると、月花門院には四辻宮(よつじのみや)と基顕中将の二人の恋人がいて、そのいずれとも父の分からぬ子を宿し、流産(堕胎?)のために夭折したと記されている。月花門院23歳のときのことだ。

 月花門院(月華門院とも)の諱は綜子。母は西園寺実氏の娘、大宮院。高貴な血筋で後深草院の同母妹で、亀山院の同母姉だ。生没年は1247(宝治元)~1269年(文永6年)。月花門院は1247年(宝治元年)、生まれるとともに内親王宣下。1248年(宝治2年)安嘉門院邦子内親王の猶子となった。両親の寵愛を受け1263年(弘長3年)、17歳のとき准三宮並びに院号宣下。以後、月花門院を称した。

 鎌倉時代の都の貴族は、武家に権力を奪われて地盤が沈下していく中、過去の栄光が忘れられずにもがいた人々と、新しい時代に適応している人たちに分かれていた。そして幕府は、その両勢力の争いに乗じて着々と政権の基盤を固めていた。そんな時代状況の中で、綜子内親王は高貴の人々の中でも最も恵まれた境遇にあったはずだ。しかし、男と女の世界の恋の成就に、貴賎はあまり関係しなかったようだ。彼女が詠んだ歌の多くが、恋の悲傷の歌なのだ。

 「秋の来て身にしむ風の吹くころは あやしきほどに人ぞ恋しき」

 これは実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家の娘)に贈った歌だ。歌意は、秋が来て身に沁みる風の吹くころには、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。贈った相手は女性で、いわば友情の歌なのだが、詠み込まれた心情は、やはり恋の悲愁だろう。

 「ちぎりおきし花のころしも思ふかな 年に稀なる人のつらさは」

 歌意は、稀にしか逢うことができない恋人と、「花のころに逢う」との約束を思うにつけても、切なさで心がいっぱいになってしまいます。世間をはばかる事情があって逢えないのか、ただひたすら恋人の訪れを待つ皇女の姿が浮かんでくるようだ。

 「いかなればいつともわかぬ夕暮れの 風さへ秋は恋しかるらむ」

 歌意は、どういうわけか、いつも決まって何ということもない夕暮れの風さえ、秋は悲しみを催させるのでしょうか。この歌は秋と風と夕暮れを詠み込んで、自然を見つめて人生を沈思する中世の人々の感受性を表現している。が、同時に人を恋することの悲しさと危うさを知り尽くしたような、悲恋の皇女の叫びが聞こえてくるような歌でもある。

 1266年(文永3年)、完成披露された『続古今集』には、月花門院綜子内親王の歌が20歳の若さで8首入集している。また『続古今集』以後の勅撰集に彼女の歌21首が収められている。そして1269年(文永6年)、彼女は23歳で急逝した。『増鏡』によると、月花門院は中将・源彦仁(順徳院の孫、忠成王の子)および、頭中将・園基顕の二人と密通し、子を身籠った末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」