「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

松坂城跡などで「宣長まつり」書斎を限定公開

松坂城跡などで「宣長まつり」書斎を限定公開

三重県松阪市の松坂城跡などで4月2、3の両日、同市出身の国学者・本居宣長を称える「宣長まつり」が開かれた。折から城跡の桜もほぼ満開となり、多くの人でにぎわった。
今年のまつりは、城跡内の本居宣長記念館が7月から休館し、1970年の開館以来初となる大改装を行うことから「のりなが紙芝居」や、城跡を巡る「のりながお城ウォーク」などのイベントを開催した。
国の特別史跡の宣長旧宅「鈴屋」では2階の4畳半の書斎を3日に1日限定で開放したほか、1階では江戸時代から昭和期にかけてつくられた宣長の像、約20点が初めて一堂に展示された。

神武天皇没後2600年式年祭 両陛下が参拝 奈良県橿原市

神武天皇没後2600年式年祭 両陛下が参拝 奈良県橿原市

天皇、皇后両陛下は4月3日、奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝された。同日は日本書紀の神話で神武天皇が没したとされる日から2600年(新暦換算)にあたり、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」の山陵の儀が行われた。天皇陛下は「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。随従皇族として秋篠宮ご夫妻も参拝された。
神武天皇の式年祭は皇居でも行われ、皇太子ご夫妻らが歴代天皇や皇族を祀る皇霊殿に拝礼された。100年ごとに行われる式年祭は1916(大正5)年以来。

名古屋城天守閣の木造復元案 最大504億円

名古屋城天守閣の木造復元案 最大504億円

名古屋城天守閣の木造復元を目指す名古屋市の河村たかし市長は3月29日、復元の技術提案コンペに応じた2社(竹中工務店、安藤・間)から竹中工務店案を選んだと発表した。
竹中案は4人乗りのエレベーターを取り外すと天守閣が元の姿になるように設計され、総事業費473億~504億円、安藤・間案はそれより25億~40億円抑え、エレベーターは11人乗りだった。
名古屋市は東京五輪が開催される2020年の7月末までの完成を条件に技術展案を公募した。専門家らが工期達成や事業費縮減の工夫、バリアフリー、木材の調達などで採点した。その結果、史実への忠実さや実現可能性などから竹中案になったという。
4月下旬に2000人規模の報告会を5回開いて竹中案を説明。5月半ばまでに結果が出る2万人規模のアンケートで木造復元か、29億円かけて鉄筋鉄骨コンクリート造りのまま耐震改修かを問う。

江戸期の行事「葵使」再現 京都・上賀茂神社

江戸期の行事「葵使」再現 京都・上賀茂神社

江戸時代に京都・上賀茂神社のフタバアオイを将軍・徳川家に献上した「葵使」を再現する行事が3月27日、京都市北区の同神社一帯で行われた。
今回は上賀茂小5、6年生や地域住民ら60人が参加。上賀茂神社で道中の安全を祈る神事を営んだ後、法被姿の児童と江戸時代の装束を身に着けた大人が境内で育てたフタバアオイの鉢を持って出発、京都コンサートホールまで約1.5㌔を歩いた。
葵使は、葵を家紋とする徳川家が武運長久などの願いを上賀茂神社のアオイに託して始まったとされる。江戸初期から大政奉還まで続いたと伝わり、地元住民が2007年に140年ぶりに復活させ、今回で10回目を迎えた。

奈良~昭和の「ごちそう」一堂に 福井・小浜食文化館

奈良~昭和の「ごちそう」一堂に 福井・小浜食文化館

奈良時代から昭和までの「ごちそう」にスポットをあてた企画展が、小浜食文化館(福井県小浜市)でリニューアル1周年記念として開かれている。天皇や貴族の食事や人をもてなした膳、現代人が味わっている料理などレプリカ約100点が並び、食を通して時代の変遷を映し出している。
中でも目を引くのが安土桃山時代。天下統一を目前にし、この後、本能寺で散った織田信長が1582年、徳川家康に振る舞った料理をレシピに基づいて再現している。キジ、鶴などの鳥肉や塩漬けした魚などがふんだんに使われた豪華なごちそうだ。
このほか、江戸時代・幕末、黒船を率いて浦賀沖に来航し開国を迫った米ペリー提督に提供した料理のレプリカ、奈良時代の天皇や貴族が食したごちそうや、カレーライス、すしの折り詰め、すき焼きなど現代の定番も展示されている。

石田三成の居城の痕跡一掃へ徹底破壊 発掘で裏付け

石田三成の居城の痕跡一掃へ徹底破壊 発掘で裏付け

滋賀県教育委員会は3月24日、豊臣秀吉の側近の一人だった戦国武将、石田三成が居城としていた同市の佐和山城跡で、城を破壊する「城割り」の痕跡が確認されたと発表した。関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の大将格だった三成が敗れた後、徳川方が”見せしめ”として、徹底的に壊したとみられる。
佐和山城は、佐和山(233㍍)に築かれた山城。三成は1590年に城主となり、5層の天守を構えたとされる。関ヶ原の戦いの後、家康の家臣、井伊直政が入城したが、近くに彦根城を築いたことに伴い1606年、廃城となった。
今回の調査で、本丸があったと伝わる山頂付近の斜面を発掘したところ、石垣表面に使う大きな「築石(つきいし)」は見つからず、裏に詰める小石だけが大量に出土。さらに本丸があったとみられる平坦な造成地などは徹底的に削られ、痕跡も残っていなかった。
同市教委によると、江戸時代の史料には佐和山城の石垣を彦根城に再利用したこと、佐和山城の本丸を破壊したことなどが記されており、今回の調査はそのことを裏付けたとしている。

埋葬されたのは舒明天皇か蘇我蝦夷?奈良・小山田遺跡

埋葬されたのは舒明天皇か蘇我蝦夷?奈良・小山田遺跡

奈良県立橿原考古学研究所は3月23日、飛鳥時代に築かれた未知の古墳の一部の可能性がある巨大な石張りの掘割(濠=ほり)が出土した奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、厚さ3㍍以上の粘土層が見つかったと発表した。古墳の基盤部分にあたり、大規模な造成工事による巨大古墳だったことを裏付けるものという。
掘割の西約11㍍を発掘し、今回確認されたのは地下3㍍で南北3.5㍍、東西3㍍にわたる黄褐色の粘土層。
北側斜面と底面に石英閃緑岩(せんりょくがん)を張り、南側斜面に榛原(はいばら)石と呼ばれる特殊な板石などを階段状に積み上げた掘割(長さ48㍍)の規模から類推すると、埋葬されたのは皇族か有力豪族のようだ。
舒明(じょめい)天皇が最初にほ葬られた墓とする説や、大豪族、蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓などの見方が出ている。

季節外れの南岸低気圧がお膳立てした「桜田門外の変」

季節外れの南岸低気圧がお膳立てした「桜田門外の変

日本の南岸を低気圧が通過し、日本列島は前日までの陽気から一転、3月24日から冬型の気圧配置となり、東日本、西日本以西、中国、九州地方まで、寒気が南下してしばらく寒さが続く見通しだ。
同じようなことが今から156年前に起こっている。1860年3月24日、旧暦では安政7年3月3日はもっと寒く、南岸低気圧の通過によって江戸は季節外れの大雪に見舞われた。
この大雪の朝、徳川幕府の大老、井伊直弼(46)が江戸城に登城途中、水戸・薩摩藩士合わせて17名が桜田門外で襲撃、「桜田門外の変」が起きた。大老を警備していた彦根藩士たちはいずれも、季節外れの大雪のため柄袋で刀を覆っており、このため急襲を受けた彦根藩士たちは抜刀が遅れ、藩主の暗殺を許した原因の一つとされている。
東京でこんなに遅く大雪となるのは珍しいことだった。まさに大雪がお膳立てした歴史的事件だった。

謎の仏像の胎内から重源・快慶の名記した印仏発見

謎の仏像の胎内から重源・快慶の名記した印仏発見

滋賀県教育委員会などによると、MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)所蔵の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)の正体が明らかになってきた。
この仏像の胎内から見つかった、地蔵菩薩の姿をはんこで押し並べた「印仏(いんぶつ)」や札の中に鎌倉時代、東大寺を再興した名僧、重源(ちょうげん)と、当代随一の仏師・快慶の名、奈良の新薬師寺との関係をうかがわせる記述が含まれていたのだ。
同県教委文化財保護課によると、重源と快慶は東大寺南大門の金剛力士像はじめ、各地で寺院と仏像をつくった名コンビ。この2人が寄付集めなどを目的に同時に連名するする例は珍しいという。それだけに、この地蔵菩薩はかなり由緒あるものだったはず-と分析している。
また、印仏の紙の間に供養札も挟まれており、「新薬師寺」の文字があった。地蔵菩薩との関連は不明だが、この像はもともと奈良にあった可能性が高い-と推論している。
この像は13世紀後半の作とされ、高さ52.5㌢。像の表面の虫食いや塗りがはげ落ちるなど傷みが目立ち、台座が不安定だったため、2014年から国の補助を受け、保存修理に取り掛かっていた。その作業の中で当初、空洞と思われていた像の胎内から今回、印仏や札が見つかったもの。

重文の如意輪観世音菩薩 7年ぶりに開扉 大津・石山寺

重文の如意輪観世音菩薩 7年ぶり開扉 大津・石山寺

滋賀県大津市の石山寺が3月18日、本尊の如意輪観世音菩薩(重文、平安時代)を7年ぶりに公開した。三笠宮彬子さまも臨席し、開扉法要も営まれた。
午前11時、鷲尾遍隆座主ら僧侶の読経の後、勅使の宮内庁職員が扉を封印していた鍵を解いた。約5㍍の本尊が姿を現すと、参拝者は本尊の指に結んだひもに触れて結縁(けちえん)した。
観世音菩薩は33の姿で人々を救うことにちなみ、本来は33年に1度開帳するが、西国三十三カ所を中興した花山法皇の千年忌を記念して2009年に開扉した経緯がある。