「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

奈良・春日大社と興福寺で初夏告げる「薪御能」

奈良市の春日大社と興福寺で5月20日、奈良に初夏の訪れを告げる伝統行事「薪御能」が始まった。かがり火が照らす幽玄の舞に、観客はひととき酔いしれた。
今年は3年ぶりに一般公開され、会期も2日間となっている。新型コロナウイルスの感染拡大で2020年は中止、2021年は非公開で会期を1日に短縮して行われた。
薪御能は平安時代の869年に、興福寺の法会「修二会」で奉納された猿楽が由来といわれ、全国各地の野外能の源流とされる。観世、金春、宝生、金剛の4流派が競演し、狂言も演じられる。

伊達政宗作「達磨図」90年ぶり仙台市で発見

仙台藩祖・伊達政宗が描いたとされ、1928年に仙台市で開かれた東北遺物展覧会に出品後、行方不明になっていた「達磨図」が、約90年ぶりに市内で見つかった。
達磨図は縦67.5cm、横34.5cm。眼光鋭い達磨大師が描かれ、右上に正宗の信頼が厚かった清嶽(せいがく)禅師の詩文「這老臊胡(このろうそうこ)癡々●々(ちちごつごつ」面壁九年(めんぺきくねん)眼如漆突(めはうるしのごとくつく)劣孫清嶽宗拙拝讃」が添えられている。
政宗作とみられる絵が見つかったのは、2015年に宮城県塩釜市の旧家に保存されていることが分かった「梅二雀」に続き2例目。

佐藤春夫 少年時代の水彩画など記念館で展示

和歌山県新宮市内の佐藤春夫記念館で、彼が少年時代に描いた水彩画や短冊、友人に宛てた手紙など27点を集めた展示会が開かれている。5月末まで。子どもと犬が描かれた水彩画は、新宮中学に通っていたころの作品という。
これらの多くは同級生の親族から寄贈されたもので、同記念館ではたくさんの人に見ていただき、佐藤春夫の故郷への思いを感じてほしいとしている。
佐藤春夫は大正から昭和にかけて活躍した和歌山県新宮市出身の作家で、叙情詩「秋刀魚の歌」などの作品で知られる。

京都・葵祭 5/15神事のみ執行 行列は3年連続中止

京都三大祭の一つ、葵祭が京都・下鴨神社(所在地:京都市左京区)などで関係者のみの神事が執り行われた。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、平安装束をまとったヒロイン「斎王代」らによる王朝絵巻さながらの、見せ場の行列は3年連続で中止した。
下鴨神社の境内で勅使が紅色の紙に記された御祭文を読み上げ、神職がお供え物を納めて国家安寧を祈願した。関係者約350人が見守った。
葵祭は下鴨神社と上賀茂神社(所在地:京都市北区)の例祭。6世紀の欽明天皇の御代に凶作が続き、五穀豊穣を祈ったのが始まりとされる。

荻生徂徠の資料 子孫が東大駒場図書館に寄贈

東大によると、江戸時代を代表する儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい、1666~1728年)の関係資料約150点が、子孫らから東京大学駒場図書館(所在地:東京都目黒区)に寄贈された。整理が進めば新しい発見も期待されるという。
徂徠自筆の稿本や、徂徠の門人に関する資料、徂徠の肖像画や印などこれまで知られていなかった資料類が含まれているという。これらは徂徠の子孫、荻生茂樹さんと、その姪(めい)の庄子妙子さんが保管していたもの。

山梨大 二ホンオオカミは日本で誕生 DNA解析で新説

山梨大学の研究チームは5月10日までに、化石のDNA解析に基づき、二ホンオオカミのルーツに迫る新説をまとめた。
その結果、日本に多く生息したが、20世紀初めに絶滅した二ホンオオカミは大昔に来た巨大オオカミと、3万7,000~1万4,000年前ごろにユーラシア大陸から入ったオオカミが交雑して日本列島で生まれたというもの。
栃木県佐野市で見つかった3万5,000年前の巨大オオカミと、5,000年前の二ホンオオカミの化石からDNAを抽出し、遺伝子を解析した。この2つには遺伝的な関係があり、さらに現在の大陸に生息する系統ともつながることが確かめられた。

奈良・橿原市で出雲地方の文化財350点集め特別展

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で、島根県出雲地方の発掘調査で見つかった土器など関西に関係がある、およそ350点を集めた展示会が開かれている。この特別展は6月19日まで。
出雲市の荒神谷遺跡から出土した青銅製の銅鐸と銅矛、銅剣は昭和59年から行われた発掘調査で見つかったもの。今回展示されている青銅器は、いずれも国宝に指定されている。この遺跡は、銅剣が最も多く出土した弥生時代の遺跡として知られる。
安来市の墓の遺跡から出土した国の重要文化財の「双龍環頭大刀」は長さ1mほどの刀で、刀を握る部分、束の先には2頭の龍が透かし彫りであしらわれていて、7世紀の飛鳥時代のものとみられている。刀のデザインなどから墓は、飛鳥時代の権力者、蘇我氏につながりのある人物が埋葬されていた可能性もあるという。

川中島合戦の最中 信玄が家臣に書いた書状見つかる

武田信玄が上杉謙信との間で数度にわたって戦った川中島合戦の最中、戦費負担の求めに応じた家臣に宛てたお礼の書状が見つかった。長野県立歴史館(所在地:長野県千曲市)が、京都の古書店で見つけ、286万円で購入した。
この書状は第2次合戦(犀川の戦い)の最中の1555年7月、長野県松代町の辺りを治めていた在地領主の清野信秀に宛てたもの。和紙に墨書きされ、縦約31cm、横約45cm。出家して信玄を名乗る前の「晴信」の署名と、花押(サイン)が確認できる。
書状を分析した同歴史館によると、信玄が戦いに備えて本陣を整備するための費用の担保として、信秀から所領の目録を預かったことに感謝する内容が認められている。

三好長慶の「飯盛城」を3DCG再現したアプリ開発

大阪府大東市は、地域の歴史に興味を持ってもらおうと、戦国時代に畿内一円を支配し、大東市と四条畷市にまたがる飯盛城を居城とした三好長慶の生誕500年に合わせて、CGで再現したアプリを開発した。
大東市のホームページからダウンロードできる飯盛城の地図に、アプリが入ったスマートフォンをかざすと、3DCGで再現された当時のやぐらや建物をみることができる。
また、飯盛城跡に行くと、大阪平野に広がっていた深野池(ふこのいけ)など当時の様子を360度で見渡せるようになっていて、今の景色と比較しながら散策できる。

鍋島家の陰に名僧あり 朝鮮出兵,関ヶ原の戦い

佐賀市の佐賀城本丸歴史館で、豊臣秀吉の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いの際、佐賀・鍋島軍に従事した2人の名僧を紹介する特別展が開かれている。「鍋島家と禅僧たち-さが名僧伝」と題する特別展で、6月12日まで。観覧料は無料。
1人は、豊臣秀吉の文禄の役の際、鍋島直茂に従って朝鮮半島にわたり、その活動を支え、朝鮮との交渉文書を作成した是琢明琳(ぜたくみんりん、臨済宗泰長院の第3世)。もう1人は、小城・千葉氏家臣の出自で、徳川家康の外交顧問を務め、鍋島家が関ヶ原の戦いで西軍についた際、その謝罪を受け入れるよう取り成した閑室元佶。この2人の禅僧は、龍造寺家から鍋島家へ肥前の統治権が移行し、確立する直茂・勝茂の時期に鍋島家を支えた。この2人にスポットを当てている。