月別アーカイブ: 2013年9月

大震災直後、避難所開設を後藤新平に直訴した男性が詳細を記録

大震災直後、避難所開設を後藤新平に直訴した男性が詳細を記録
 9月1日で発生から90年を経過した関東大震災で被災しながら、当時、震災復興を担った後藤新平内務相に避難所の開設を訴え、東京・芝浦で約1万8000人を支援した民間人男性が、被災の様子、収容人数などを記録し、残していた詳細な資料が見つかった。民間避難所を運営し、被災者の収容記録を残したのは、現在の東京都港区でランプの販売会社を営んでいた故今井諦氏。1977年に92歳で亡くなったが、娘の西脇孝子さん(72)らが原本を父の故郷で保管、複本を手元に置いていた。
 焼け野原となった東京都心の街中の情景、今井氏の心境、震災4日後、友人とともに後藤内相の私邸を訪ね、避難所開設の賛意を得たこと、東京高等工芸学校(現・千葉大工学部)を「芝浦避難事務所」とすることが許され、私財を投じた今井氏が責任者に就いたこと、避難所開所から閉鎖までの約1カ月間の日ごとの収容人数などが詳細に綴られている。当時を知る貴重な資料だ。

明日香村の甘樫丘で7世紀中ごろの蘇我氏(?)の建物跡発見

明日香村の甘樫丘で7世紀中ごろの蘇我氏(?)の建物跡発見
 奈良文化財研究所は9月5日、飛鳥時代の有力豪族、蘇我氏の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東側の麓で谷を埋め立てて建てた7世紀中ごろの建物跡を見つけたと発表した。建物跡は大小2棟あり、高床式の構造で小型の倉庫かやぐらなどだったとみられる。谷を埋め立て5.5㍍以上の盛り土をして平坦地を造成してあった。南西の谷でも造成工事の痕跡が見つかっており、同研究所では当時、甘樫丘全体を大規模に造成していた可能性が高いとみている。

京都の桃山時代の大名屋敷跡で金箔が貼られた軒丸瓦など出土

京都の桃山時代の大名屋敷跡で金箔が貼られた軒丸瓦など出土
 民間団体「古代文化調査会」(神戸市)によると、京都市上京区の桃山時代の大名屋敷跡で、金箔が貼られた軒丸瓦など100点以上の瓦片が出土した。軒丸瓦の破片に橘の花をかたどった家紋があり、豊臣五奉行の一人、前田玄以の屋敷とみられるという。屋敷跡は秀吉が公邸として築いた城郭・聚楽第と御所を東西に結ぶ当時のメーンストリートの一等地。派手好きの豊臣秀吉との親しさを強調するために金箔を使ったのではないかとみられる。

12世紀前半に京都・浄瑠璃寺本堂を移築 文献通り確認

12世紀前半に京都・浄瑠璃寺本堂を移築 文献通り確認
 京都府木津川市教育委員会は9月4日、同市の浄瑠璃寺で、12世紀前半に高さ約1㍍にわたり土を盛って造成し、国宝・本堂が移築されていたことが分かったと発表した。現地説明会は7日午前11時と午後2時。寺の変遷を記した室町時代の文献「浄瑠璃寺流記」(重要文化財)には「保元2年(1157年)に本堂を西岸の辺壊し移す(移築した)」などと記されており、その記述を裏付ける発見という。本堂の下を発掘したところ、土が層状になっており、地面の約50㌢下から、直径50~60㌢、高さ85㌢の井戸のような石組み遺構が見つかった。石の間にあった土器1点から、盛り土された時期を12世紀前半と特定した。

新作能「世阿弥」能楽ゆかりの奈良・大淀町で7日上演

新作能「世阿弥」能楽ゆかりの奈良・大淀町で7日上演
 能楽の大成者、世阿弥を現代の視点で哲学者の梅原猛さんが書いた新作能「世阿弥」が9月7日、奈良県大淀町の同町文化会館で上演される。同町は世阿弥が活躍した室町時代初期、能楽の座の一つ「桧垣本猿楽(ひがいもとさるがく)」が拠点にしており、能楽のゆかりの地として同町での公演が決まった。「世阿弥」は世阿弥と長男の元雅の情愛と葛藤、政治と芸術の相克を、古語ではなく現代の言葉で描く異色の能。
 4月、東京の国立能楽堂で初演され、舞台照明や暗転を用いるなど伝統芸能の能には見られない演出でも話題になった。世阿弥役観世流シテ方の梅若玄祥さん。上演前に出演者が指導して観客が謡曲「高砂」を謡うワークショップを開催する。

創建1300年記念 興福寺仏頭展 東京芸術大 大学美術館で開幕

創建1300年記念 興福寺仏頭展 東京芸術大 大学美術館で開幕
奈良・興福寺の創建1300年を記念する「国宝 興福寺仏頭展」が9月3日から東京・上野の東京芸術大学大学美術館で始まった。開幕を前に2日、開会式と内覧会が開かれ、同寺の名宝約70点がお披露目された。国宝の銅造仏頭と木造十二神将立像が約600年ぶりに同じ空間に勢ぞろいする。仏頭前で開眼法要が執り行われると、会場は厳粛な空気に包まれた。11月24日まで。

アイヌ民族の視点に立った歴史展示に 道が開拓記念館を改称

アイヌ民族の視点に立った歴史展示に 道が開拓記念館を改称
 北海道は2015年春、道立北海道開拓記念館を「北海道博物館」と改称し、開拓によって生活文化を奪われたアイヌ民族の視点に立った歴史展示を大幅に拡充する方針を固めた。道はこの計画を10月にも道議会で説明、改称は来春成立を目指す「北海道立博物館条例」(仮称)で正式に決定する。政府もアイヌの歴史、文化への正しい認識と理解を促進するための国立博物館を道内に建設予定で、来年度中に基本計画を策定する。
 札幌市厚別区にある開拓記念館は総合歴史博物館で、1971年に開館した。現在、アイヌの伝統的な衣装や住居などを展示しているが、先住民族の立場から見た歴史展示の充実が必要と判断。これまで詳しく触れていなかった開拓史の同化政策とともに、政府が1899年に制定した「北海道旧土人保護法」(1997年廃止)の内容についても展示する計画だ。
 保護法により、アイヌ語が禁止され、日本語や和人(アイヌ以外の日本人)ふうの生活習慣を身につけさせる特設学校が設置されたことや、狩猟などを禁じられ農業をすることを前提に与えられた土地が、狭く荒れていたことなど、事実として存在したアイヌ民族抑圧の歴史も忠実に表現される予定。

初代竹本義太夫「三百回忌法要」寄付2500万円が支えに

初代竹本義太夫「三百回忌法要」寄付2500万円が支えに 文楽の語り芸「義太夫節」を創始した初代、竹本義太夫(1651~1714年)の「三百回忌法要」が8月28日、大阪市天王寺区内で営まれた。墓石や供養塔は一部が剥落するなど損傷が激しかったが、自主公演売り上げのほか、文楽の技芸員(演者)や来場者の寄付で約2500万円を集め、新調したり、修復したりすることができた。
 法要は技芸員有志でつくる「人形浄瑠璃文楽座 因講(ちなみこう)」が主催し、午前11時から超願寺(天王寺区)で始まった。集まった寄付で新調された墓石も公開された。
 竹本義太夫は江戸時代の義太夫節の開祖。摂津国・天王寺村(現在の大阪市)出身。農家に生まれたが、音曲を修業し、清水(きよみず)理太夫の名で、古浄瑠璃界で頭角を現し1684年、竹本義太夫と改名、道頓堀に竹本座を興した。近松門左衛門を座付き作家に迎え、「出世景清(しゅっせかげきよ)」「国性爺(こくせんや)合戦」などヒット作を連発。人形操りと合体し、今日の文楽につながる人形浄瑠璃発展の主導的役割を果たした。

「明治日本の産業革命遺産」を選定 世界遺産推薦へ

「明治日本の産業革命遺産」を選定 世界遺産推薦へ
 内閣官房の有識者会議は8月27日、2015年の世界文化遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)へ推薦する候補に決めた。ただ、すでに文化審議会が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県、熊本県)を選定。各国の推薦枠は年1件で、2候補が競合したため政府内で絞り込み、9月中に結論を出す。

二条城の唐門を一般公開「菊」の金具下から「葵」の紋

二条城の唐門を一般公開「菊」の金具下から「葵」の紋
 元離宮二条城事務所は8月28日、世界遺産の二条城(京都市中京区)で、約1年半かかった唐門(重要文化財)の修理を終え一般公開した。唐門に、天皇家を表す菊の金具下から徳川家の葵(あおい)の紋が見つかった。徳川家の城だった二条城は1867年の大政奉還により、朝廷の管理下に入り、84年に天皇家の別荘「二条離宮」となった際に金具が付けられたとみられる。二条城では、葵紋が削り取られる一方、残されているところもあるという。